第五章:氷の花②【雪降る白狐塚の谷】

 冬が深まって行くのをお雪は感じ取った。降る雪を見てお雪は、流石にこれでは雪彦も外にはいまいと思った。段々とお雪は焦れったく思い始め、このまま山の妖狐に会う機会を失う事を真剣に案じ始めた。
 ある寒い日も雪が降っていた。日中、お雪がただ座っていると、逆に母は外に行く支度をしていた。笠を被って蓑を肩に掛け、玄関戸を開けた。着物は普段の地味なものだった。
「お雪、私ちょっと出かけてくるから。今日はすぐに戻ってくるよ」
 母は外に出て行き、外から玄関戸を施錠した。
 お雪は家の中で特にやる事も無く、立ち上がって鏡を見て髪を梳かしたり、本棚の本の背のほつれた糸を眺めたりした。それから室内の掃除を始めた。その時、部屋の片隅に安置された刀が気になった――これは母のものだが、もしや不在の「父上」の遺品なのかもとお雪は想像した。見ると少し鞘に埃が被っていたので、彼女は拭こうと思った。
 撫でるように布で拭き掃除をしている時にふと、どれ程の重さがあるのかと何となく思い、柄の部分を持ち上げてみようとしたが、それはずっしりと異様に重く感じられた。お雪は自分の力ではこれを自在に振る事など絶対にできないと思った。
 その時、玄関戸を叩く音がして、お雪は腰をかがめた姿勢のままで固まった。再度戸が叩かれ、警戒しながら玄関口に向かうと三度目の戸が叩かれる音がした。
「どなたですか」とお雪は静かに尋ねた。
「お母さんはいる?」と声がして、お雪は玄関戸から離れた。
 そして急いで「私の中に」と、つっかえそうになりながら例の合言葉を答えた。
 少し沈黙があって彼女が身構えていると、もう一度声がした。
「僕だよ、お雪」
 それを聞いて「えっ」とお雪は思わず言い、緊張と警戒が溶けるように消え去った。
 その声は、間違いなく雪彦のものだと思い、お雪は自然に手が動き、戸を開けた。
 そこに確かにいたのは、笠を被った雪彦だった。笑みを浮かべつつも、この雪には正直まいったとでも言うような困惑ぶりも見せ、彼は手で笠の上の雪を軽く払った。その自然な表情と手付にお雪は心が和み、嬉しくて心が踊った。
「ごめんね。いきなり来て」と雪彦は言った。
 お雪は喜びつつも、少し戸惑って「雪彦。どうしたの?」と小声で言った。
 どこに目があるか分からぬ集落の中にて彼がこの場にいるのもしや危険なのではと、 お雪は思った。もっとも笠に隠れて彼の尖った耳は見えないし、この降る雪の中では彼の白い尾や白装束は目立たないではあろうとも思えた。
「今、君のお母さんはいないよね」と彼は改めて確認するように尋ねた。
「今、お出かけ中。すぐ戻ってくるとは言っていたけど――中、入る?」
「いや、僕もすぐに戻るつもりで来たから。ただ、ちょっと君に伝えようと思って」
「え。何を」
「明日、ひとまずこの雪は必ず止む――そうしたら、一緒に山に行こう」
 言われてお雪は「あ」と声をあげ、雪彦が約束を覚えていてくれた事に対してじんわりと喜びが滲み出し、やがてそれは満ち溢れてお雪は子狐のように喜び、笑みもこぼれた。
「うん。――朝は、早い方がいいのかな」
「そうだね。僕はいつもの場所で待っているから、日が昇ってから早いうちに来て」
 お雪は「分かった。必ず行くから」と笑顔で答えた。
 雪彦は微笑んで「待っているよ」と言った。
 そして彼はその場を去ろうとしたが、二歩程進んで振り向いた。
「君のお母さんに明日の時刻の事は伝えて欲しい。夕刻前には必ず帰れるから」
「うん、分かった」とお雪が言うと、降る雪の中で雪彦は小さな笑みを見せて去った。
――彼は母上の存在もよく気に掛ける。お雪が何気なく思い、再び見ると彼の姿は無かった。
 風向きが変わり、降る雪が家に入り込んだ。いけないと思いお雪は玄関戸を閉めた。
 母は娘に告げていた通りに早めに帰宅した。
 母は頭領達の家に行っていた。そういえば最近、お雪はお使いを頼まれていなかった。母は雑品を納める仕事を辞めるという。
この寒い中で、母の表情は妙に爽やかだった。
「刀とかの大きな刃物は、所詮は大体が殺しのための道具さ。だから、小さな刃物に限ってこれまでは納めてきたけれども、そういうもの奴らは悪事にしか使おうとしないみたいだから。悪事には手を貸したくないから今後、あいつらに与える物は無い。織物や日用品についても同じ……するとあいつら、売るものがないならこれからは体でも売るか、なんて言ってきたけれど――まあ、馬鹿野郎と、言ってやったよ」
 そう言って母は笑った。
 母の表情は腫れ物(はれもの)が落ちたように晴れ晴れとしていた。
――それで本当に大丈夫なのかな。春に谷を出ようと母上は以前言っていたけれど、それは相当本気で外に移住するという意味なのかな。多分そうだ。
 お雪は心配気味に、そう思った。
 その日、夕方は冷え込んだが夜には寒さがすっと引いた。
 そして翌朝。雪彦の言葉通りに雪は止んでいた。昨日大雪だった割に積雪も少なかった。
 積雪の少なさに、お雪は驚いた。夜遅くに雨が雪と混じった故かもと思った。
 早速彼女は母に夕方頃まで長く遊んできたいと申し出た。ところが予想外に「何で?」と聞き返され、娘は受け身がとれずに口籠り、頬が火照った。
 母は着物を丁寧に畳んでいた。
「―― 別にいいけれど。危険な所には行かないでおくれよ」
 母はそう言い、窓の方を見た。家の中でも吐息は白かった。そして、付け足した。
「まあもうじきに、外出どころじゃない時期に入るからね。今のうちに遊んでおいで」
 お雪はほっとして「はい、母上」と言って雪草鞋を履き、いつもよりも緒を念入りに結び、外に出た。空の大部分は晴れ間だった。雲は断片的な千切れ雲が所々に少し浮かぶだけで、良い天候だと思えた。風は少しあった。
 お雪が一歩一歩着実に地の雪の上を歩んで行くと、いつもの丘に雪彦はいた。
 そして彼の方から歩み寄ってきた。嬉しくてお雪は勇んで駆け寄ったが、うっかり足が滑った。前に向かって倒れる前に、雪彦は「危ない」と言い素早く駆け込んで彼女を抱き支えた。お雪はいつにも増して胸が高鳴る事を抑えられなかった。
「気を付けて、お雪……大丈夫かい?」
「うん。ありがとう、雪彦」
「所々、凍っているから。じゃあ、一緒に山に行こうか」
 雪彦の言葉にお雪が頷き「うん」と決心したように返答すると「よし」と彼は言い、少しかがみ込んでお雪の膝裏と背に腕を回し、そして彼女を抱き上げてそのまま歩き出した。
 お雪は小さく「きゃ」と声をあげた。彼の腕の力は思っていた以上に強かった。お雪の黒い「狐の尾」は優しく手ですくい上げられ、彼女の胸の上に弧を描いて置かれた。
 彼の腕は温かく心地良く、お雪は悪い気はしなかった。頼もしくも思えた。だが足をくじいたわけでもないから少々恥ずかしかった。お姫様というわけでもないのに。
「あの、雪彦――嬉しいけど、私歩けるわ。抱っこまでしてもらわなくても」
 彼女は気持をそのまま言葉にした。雪彦は優しく笑った。
「森の中ではこういう感じで進まないといけない場所があるから」
「そうなの?」
「そう。目を閉じていて欲しい場所が森の中にある。そしてそこではこんな感じで、僕が君を運ばないといけないから」
「目を閉じるの?森の中で?」
「そう。その場所では僕がいいと言うまで開けないで欲しい。今は開けていていいよ」
 お雪は、敢えてその詳細は尋ねなかった。彼を信用し、彼に身を委ねようと思った。
 雪彦はお雪を抱きかかえたまま少し歩き、やがて駆け出した。お雪は自らの「狐の尾」を腕で抱えるように押さえた。前髪は風で乱れた。今、彼の白い「狐の尾」は後ろに大きく舞っているはずだと思った。荒野の景色が流れて目に映った。幾つもの丘を越えて雪彦は颯爽と最後の斜面を下り、俊敏に跳ねるような動きで山麓の森へと入った。
 景色が変わった。森の中の様子は明確に見えたが薄暗く、老樹を思わせる背の高い木々が多くあり、地面は濃い緑色の苔と黒い土が織り交ざっていた。軽い足取りで森の中を駆ける雪彦の足音だけが聞こえる他には、生き物の声も特に聞こえず、閑散とした森だった。
「雪彦。まだ目は開けていてもいい?」
 お雪は胸が躍りながらも少し不安で、頼りにするように雪彦の顔を下から見つめた。
「まだ目を開けていてもいいよ。もう少し進んだら、言うから」
 優しい声が返ってきた。そして幾らか進むと、雪彦は一本の太い樹木の傍で足を止めた。
「お雪。ここから、目を閉じていてもらえるかな。僕がいいと言うまで目を開けないで」
 お雪は緊張のもと「うん」と答え、素直に強く目を閉じた。雪彦は駆けずに歩き始めた。   
 木の匂いに、僅かに何かが加わった気がした。
 しばらくして雪彦が一歩足を止めた。
 もういいのだろうかと思いお雪が瞼の力を少し緩めると「まだ開けないで!」と、彼にしてはやや強い声がしてお雪は慌てて目を強くつむった。彼女は何も見ていなかった。
「今から上り坂に差し掛かるから」と幾分か穏やかな声で雪彦は言った。
 彼は歩き始めたが、お雪の感覚では頻繁に曲がるというか、真っ直ぐに進んでいないようだった。道が入り組んでいるのか足場が悪いのか。お雪は雪彦の言う通りに目を懸命に閉じ続けた。もし、目を開けたら一体何が起きてしまうのか。
 少しの怖さもお雪に忍び寄ったが、彼女は彼の言葉と腕の力強さを信用した。
 雪彦の歩みはやがて真っ直ぐに戻ったようで、さらに進むと冷たい風がお雪の頬に当たり、彼女は彼の腕の中で身を小さくした。周囲の香りと空気の感じも変わった。ある時に右に曲がったような気がして、さらにしばらく進むと彼が立ち止まったのが分かった。
「いいよ、目を開けて」
 お雪が恐る恐る目を開けると、淡い明るさが広がった。その弱い光でも眩しかった。
「降ろすよ、お雪。立つ時に後ろを振り向かないで」
 お雪は久しぶりに地面の上に立った。岩と土と雪面が見えて、お雪は山の中に来たのだと思った。辺りには森に生えていた種類と同じと思われる木々がまばらに、雪が残る急斜面から空に向けて直立し、尖った葉を茂らせていた。その葉の多くは雪を被っていた。
 お雪は雪彦の言葉に従い意識的に前を向いた。
「大丈夫だよ、歩いて」と雪彦は言った。お雪は「うん」と答えて初め少しよろけながら歩み始めた。もう少し抱っこして欲しいという甘えの気持もあったが、彼女は歩いた。
 少し歩くと岩場が開けて、谷を眺望する事ができた。
――凄い。彼女は率直に思った。
「こういう感じで、ここからは谷の様子をよく見渡せる」と雪彦は言った。
 背後を歩く彼の声に応じてお雪は振り向こうとし、そして直後に慌てて自らを制した。
「もう振り向いても大丈夫だよ」と雪彦は笑った。お雪は安心して振り向いた。
 雪彦の背後の彼方には、結構な勾配と思われる坂が見えた。
 お雪は、狐はいないのかなと周りをきょろきょろ見渡し、雪彦に尋ねた。
すると、ここにはいない、もう少し奥に行く必要があると彼は答えた。
 二人は山道を進んだ。雪渓を避け、滑りにくく風も強く吹き付けない道を雪彦は選んでくれた。斜面が急で険しい場所ではお雪は抱っこしてもらえた。
 雪彦は、本格的な冬になると山の白狐は冬眠をして春までの時を過ごすのだと語った。
「冬眠?じゃあ、雪彦の仲間達も、もう眠ってしまっているの?」
「まだ、起きているかな。もう少し進んだ先にいるよ。あと少しだ」
 白い狐達に会える事をお雪は期待し、小さな足を前に進めた。
 山の斜面の雪道を登り続けると、余裕を持って歩けそうな平坦な場所にお雪達は辿り着いた。その場の左側には岩壁、右側には僅かに樹木の生える急斜面があった。
 お雪が辺りを見回していると、唐突に声がした。
「娘を連れてきたのか?雪彦」
 お雪は周囲を見渡した。すると、斜面側にある大岩の上に人型の誰かが腰掛けていた。
 男性的な装束のその者は、雪彦と同じく狐耳と尾を持っていた。雪彦の仲間の妖狐だとお雪は思った。但しその妖狐の毛は黒っぽい色で、黒色の髪は結わずに後ろは肩辺りまでだけ垂らし、前髪は目の下辺りまで長く垂らしていた。その姿は周囲の木々に溶け込むように目立たない。声は高めだが雪彦よりは少し低いようだった。
 お雪は未知の妖狐に出会い興奮したが、なぜか雪彦は不機嫌そうだった。いつもと異なる彼の顔を見て、お雪は少し不安になり、少しだけ雪彦に寄った。
 雪彦は手でお雪を優しく抱き寄せたが、目はもう一人の妖狐に向いていた。
「お前には何の関係もないだろう?ソウジロウ」と雪彦は機嫌悪そうに言った。
「関係なくはないだろう?俺とお前の間柄から言えば」
「お前に会わせようと思って来てもらったわけじゃない」
 何か、あまり仲良くなさそうだとお雪は思った。
 余計な世話かもしれぬが、何かしら仲裁した方がいいかと彼女は思い、「あの……」と言葉を発すると黒髪の妖狐は顔を向けてきた。
 長い前髪の隙間から覗く目が何か雪彦とは異質だったので、お雪は一瞬恐怖を感じた。
「お前は、狐地蔵を見たか?見て、ここまで来たか」
 何か聞き慣れぬ名が出てきて、お雪は思わず「え?」と言った。「狐」しか、聞き取れなかった。その時にお雪には分からぬ理由で雪彦の厳しい視線が飛んだ。すると相手は笑い、岩を飛び下りてどこかへ行ってしまった。お雪が立ち尽くすと雪彦はため息をついた。
「お雪、もっと僕に寄って」
「う、うん」
お雪は半分慌てて雪彦に身を寄せた。白い吐息に興奮と不安が入り混じった。この時にお雪は雪彦の息が白くならない事に気付いた。二人は再び歩み出した。
「ごめんね、お雪。あいつ……ああいう困った奴だから」
「あ……いや、別に私、何も気にしてないから。あなたの仲間なのでしょう?」
「少し問題ある奴だけどね――まあ、そういう事を言ったら僕だってそうか」
 雪彦は歩きながら前髪を手で掻き分け、少し疲れたように前方を見据えた。体力的な疲れなのかどうかは分からなかった。お雪は何だか、自分自身は彼に対し何もできなくて、申し訳なく思った。彼女は彼にさらに身を寄せた。
――彼は受け入れてくれているだろうか。そうであって欲しいとお雪は願った。
 少し進むと広い分かれ道があり、右側は平たい岩の階段になっていた。
 その階段を、また別の妖狐が降りてきた。
 それは小柄で背の低い少年で、毛や髪の色はいずれもが立派な漆黒だった。小袖の装束も黒色で、雪彦と違って襟は帯に向けて垂らして左右を重ね合わせ、袴は膨らみが小さく脚を細く見せた。前髪はやや短く、目の上辺りまで垂らしていた。
 お雪はその少年の黒色が、同じ「黒」でも先刻の妖狐とは異なる事に気付いた。少年のものは、言うなれば乱れのない黒に見えた。お雪はその少年と目が合った。
「誰?……ああ、雪彦が連れてくるかもしれないって言っていた娘か」と少年は言った。
「そうさ―― お雪、彼は黒丸。黒狐族の子だよ」と雪彦は紹介した。
「黒?……あ、私はお雪と言います。はじめまして」
「ふうん。お雪……か。似合っている名前なんじゃないの。よろしく」
 少年は観察するようにお雪の事を少し見渡していた。そういえば妖狐の一族は何種類かに分かれて、色で区別されるという話をお雪は思い出した。白、黒……他に何があったか。
「黒丸。彼女に何か御馳走してあげたいから……」
「うん、分かった。何かあっちから持ってくる」
 黒丸は二叉路の左側の道へと去って行った。大岩が多く転がり、険しそうな道だった。
 黒色の狐の少年の後ろ髪は、雪彦よりは短めだが確かに「狐の尾」であるのが見えた。
「お雪、僕らはこっちに行こう」と雪彦は言い、お雪は彼と共に石の短い階段を登った。
 すると家の一室程の広さの岩場があり、直立した古そうな松の木々が道の脇に何本か生え、庭園のような落ち着きがあった。表面が平たい薄い灰色の小岩があり、雪は被さっておらず表面は乾いているようだった。その小岩にお雪は雪彦と共に腰掛けた。
 お雪がある方向に目を遣ると、何か白いものが見えた。彼女は当初、岩かとも思った。
 しかしよく見れば、それらは白い毛に白い着物を着た、妖狐の母子の姿であった――その白色は周りの雪と溶け込んでいるようであった。これがまさに白狐に違いないと思い、お雪はいよいよ興奮を覚えてまた胸が高鳴ってきた。

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