あの後の数日間、お雪はほぼ家の中だけで過ごした。天候は関係無かった。母は何かと気遣ってくれたが、機嫌は大変悪いようであった。
お 雪は溜息をついた。雪彦に会いに行きたい気持は削がれてしまっていた。そしてそれ以上に、行っても最早会えぬかと思うと、彼女は激しい動揺に似た恐怖に襲われた。
――あの頭は彼のものだったのだろうか?
真相を確かめる事自体を彼女は恐れた。
あるいは彼が生きているとしても尚不安があった。あの濃く濁った色の「狐」―― あれがもし彼であったとすれば……それもまた、彼女に荒野に行く事をためらわせた。「狐」は確かにお雪を標的にしなかった。結果的に救出してくれたとも言える。しかし、いかんせん不気味であり、そして残忍だった。
お雪は、あの首飾りを思い出した。刺青の日には首に掛けておらず、自分の裁縫箱に入れてあった。あの日に身に付けていたら確実に盗られていたと彼女は思った。
娘がやつれたように元気がない事を母は次第に心配し始めた。そしてある日、非常に珍しい事であったが母の方から外で遊んで来たらどうかと娘に勧めた。但し、行くのは野であって集落内の場所にはどこにも一切行かぬように言われた。
お雪もそれが良いと思った。彼女は支度をして外へと久々に出かけて行った。
その日は晴れ間に巻雲の群が広がり、そのぼこぼことした模様は谷の荒野の岩場のようにも見えた。お雪は今一度、悪い思い出を風に流したく思って一人荒野を歩いた。
いつしか彼女の足は「檜の三兄弟」の方角に向かっていた。そちらに雪彦がいるような気がした。冒険心も好奇心もこの日は無く、ただ彼に会える気がしたのである。
直立した三本の木々と地に伸びる影が見えてきた。招いて歓迎しているように見えた。
「駄目だよ、お雪!そっちへ行っちゃ。止まって」
お雪はびくっと、何かに打たれたように短く震え、足を止めた。母かと思った。
だが振り向くとそれは母ではなかった。いつかの彼だった。
妖狐の雪彦は、髪と尾を冬の風になびかせ、少年の姿であの時のように立っていた。
「そっちに行かないで。お母さんから言われているはずだろ」と彼は言った。
お雪はしばし呆然とその姿を見ていたが、やがて「雪彦!」と叫ぶように言い、突然に嬉しさが溢れて相手に駆け寄った。名前を彼が憶えていた事も喜びの一因だった。
そして大胆にも雪彦の胸に飛び込み抱きついた。自らの行動に、彼女は驚いた。
彼の着物越しに、生きた体温が伝わってきた。お雪はいまだに妖狐というものが現実の存在なのかあやふやに感じていたが、どちらでも彼に会えるならそれで良いと思った。
「どうしたの、お雪」と彼は言い、お雪の肩に片手を回し、もう片手で頭を優しく撫でた。
「もう会えないかと思ったから」
「また会おう、ってあの時に言ったじゃないか」
お雪は彼の胸に余計に顔を沈め、そして涙がこぼれ、家にいるような安心感が溢れた。
お雪は自分の「狐の尾」に彼の細い指が触れているのが分かった。彼女は益々相手の胸に顔を擦り寄せた。彼の上衣の胸飾りが目に入り、近くで見るとその色はお雪に贈られた首飾りの玉よりもやや赤みが濃く思えた。
しばらくして、雪彦は静かに息をついた。
「とにかく、こっちの方に行くのは良くない。あっちへ行こう」
お雪が惜しむように顔をもたげると、彼は少し憂鬱気味にどこか遠くを見つめていた。
だがお雪の目に気付くと彼は優しい笑みを浮かべた。お雪の記憶にあった笑みだった。
「あっちの方へ行こう」と彼はもう一度呼びかけた。
「うん」とお雪は小さく頷いて言った。
二人は三本の木々の丘から離れ、別の幾つかの丘陵を越えて歩いた。
そしていつかの時のように一つの丘の斜面の草地に共に座った。
山の上空を見ると雲の動きは穏やかで、お雪は景色をしばらく眺めていた。
彦は包み紙を懐から出した。包まれていたのは色鮮やかな団子で、彼はそれらをお雪に差し出した。お雪は遠慮しようかとも思ったが、彼の好意に甘えてそれをいただいた。
彼はお雪を見つめていた。団子を食みつつ、お雪も彼を見た。
「お雪。集落での生活は大変?」
「……ええ。少し」
お雪は甘く柔らかい団子を噛みながら、視線を落とした。本心は「少し」ではなかった。
彼女の後ろ髪は、少しほつれて柔らかく風に揺れた。
「……そうか」と雪彦は言ってしばらく前方を見つめた。
小さな雲の群が二人の上空を通過していた。
「君は、この白狐塚の谷の大地は好き?」
彼は質問を変えた。お雪は少し考えた。甘い味が喉を通った。
「……ええ。大好き。冬の季節は厳しいけれど、私はここの野や丘が好き」
「――そうか」
彼は少し間を置いた。
「僕も同じだよ。故郷の地はいつでも好きだ」
彼の口調は静かで優しかった。お雪は、あの日の「狐」は彼ではない気がした。見た目だけではなく、本質も異なるように思えた。そして彼女は雪彦に尋ねていた。
「雪彦以外にも、妖狐っているの?」
「いるよ。僕だけじゃない。大勢の仲間がいる」
彼の口調と赤い瞳はどことなく寂しげにお雪には見えた。
「もっとも、ここの山にはもうごく少数しか残ってないけどね。僕の母が生まれた頃には、多くの妖狐が山で暮らしていた」と彼はしばらくしてから付け加えた。
「―― そうなのね。でもこの山にもまだ少しはいるのね」
今まで外で一人だけで遊ぶのが常だったお雪は、大勢の妖狐の子達と一緒に仲良く野を駆け回る光景を何となく思い浮かべた。幻想的な光景に思えた。
その時に突如、お雪は雪彦に言わねばならない事がある気がした。できれば闇に葬りたいあの日見たもの―― あの頭が雪彦のものではなくて本当に良かったが、彼の仲間のものであれば…… お雪は言うのを躊躇した。仲を裂くきっかけにもなり得ると思った。
怖かった。言わなければそれで済むという思いもあった。彼女は急に動揺し始めた。
「どうしたの、お雪」
雪彦は目を向けた。お雪は彼を見たが、言葉が出ないでいた。
彼はお雪をじっと見つめた。
「言いにくい事は、無理に言わなくてもいいよ。君の気持はよく分かるから」
「ありがとう雪彦――でも、ちょっと、言わないといけないと思う事があるの」
「………」
「あの、その、私、この間、集落のある家で……」
お雪は口籠った。雪彦は悲しげな眼でお雪を見つめていた。
「その、妖狐の……男の子か女の子の……」
「お雪、言わなくていい」
雪彦はお雪のすぐ傍に寄って、片腕で彼女を抱き寄せた。
「君が言いたい事は分かっているから。僕を信用して」
彼は察したのだろうか。あるいは妖狐は人の心を読むといった事もできるのか。それはお雪には分からなかった。お雪はただ小さく「うん」と返事をして、彼に従い、事について彼女はそれ以上触れなかった。彼女は不安が残る中、少し寄り掛かるように少年に身を寄せた。
そのまま、時間は経過して行った。
その後、彼に連れられてお雪は丘の陵線に沿うように斜面の上を横切って散歩した。
山の話が彼の口から、幾らか語られた。谷と山の境界は崖のような急斜面でそう簡単には登る事はできない。山中でも道らしい道は限られており、雪崩が起きる事もある。大変危険だから、くれぐれも自分一人で山に行こうとは思わぬようにと彼はお雪に念を押した。
「うん、分かった」
お雪は彼に強く体を寄せながら言った。相手は足を止めて、束ねた後ろ髪の下から彼女を囲うように片腕で肩を抱いた。まだ二度しか会っていないのだがお雪はずっと前から知り合っているように幻惑し、受け入れられていると感じて先刻から胸が高鳴り続けていた。
「お雪。本当は君の事を連れて行きたいけど」と雪彦はふと口を開いた。
「え?」とお雪が言うと彼は「いや、何でもないよ」と言った。
お雪は不思議そうに雪彦の顔を見つめた。
彼女が雪彦に一層体を寄せると、彼はちっとも嫌がらず拒まなかった。
ずっと一緒にいたい――そんな気分にお雪がうっとりと浸っていた時に、ほんのりと冷たさをお雪は頬に感じた。いつの間にかのっぺりとした灰色の雲が空を覆い、降る雪が舞い始めていた。邪魔しないで欲しいと、お雪は空を見上げてやや恨めしげに心中で呟いた。
「お雪、そろそろ家に戻った方がいいかも」と雪彦は空を見上げて言った。
お雪は残念に思ったが、それをひとまず素直に受け入れようと思った。
二人は再会を約束し、今日は別れる事とした。
雪彦は、天候が悪くない日には一度目に出会った丘の辺りにいるとお雪に伝えた。
お雪は歩き出した。少し歩き、軽く振り向くと雪彦の姿はまだあった。彼は小岩の上に座り、森の方を見つめていた。少し足を進めて丘の斜面からお雪がもう一度振り向くと、その時には彼の姿は無く白い小岩だけが見えた。
母は、そわそわしている様子の娘に尋ねた。
「お雪、ずいぶんと嬉しそうだけど何かあったのかい?」
「え?あ、いえ……。いや、別に……」
妖狐の男の子に会うのが楽しみなのです、とは言えなかった。もしかしたら母には話しても良かったのかもしれないが、中々言い出せないでいた。もどかしそうに言葉を濁す娘を母は静かに見つめて「そうかい」と言い、疑う様子は特になさそうに見えた。
二度目に会って以後、お雪は雪彦に何度も会えたのだった。野に行くと、約束の場所で妖狐の少年に必ず会えた。待つように斜面に腰掛けている事もあれば、お雪がその場所に行き、辺りを見回すと、ふと少し離れた所から彼がこちらに歩み寄ってくる事もあった。
二人は揃って野を歩いたり、時には駆けてみたり、遠くに石を投げて遊ぶ事もあった。
小岩に腰掛けてただ体を寄せ合っている事もあった。少年が用意したお菓子を一緒に食べる事も多かった。お雪は遠慮がちだったが、相手はにっこりといつもの微笑みを顔に浮かべて遠慮しないでと言うのが常で、お雪は甘いものを彼と一緒に野で食んだ。
お雪は彼に好意を寄せていた。だが、逆に彼がなぜお雪にこれ程まで親切なのかが彼女には少し気になった。直接尋ねてみようかとも一度思ったが、中々その勇気は出なかった。もし期待する返答以外の言葉が返された時に、それを受け入れる心の広さが自分に備わっているかどうか、彼女には自信が無かった。
ある日に丘の上から二人で森を眺めていた時、お雪は母が春になったら谷の外に出ようと語っていた事を思い出した。お雪はそれが楽しみでもあったが、もしそれが谷を去る事を意味するなら妖狐の少年との関係も断たれるのかと思った。
――そういえば雪彦も里帰りでここに来ているという話だった。
お雪は彼と離れたくなかった。
そんな時に彼の目がお雪に向けられていて、ちょっとした誘いが来た。
「お雪は、山の妖狐達に会ってみたいと思うかい?」
お雪は、目をしばたいて雪彦を見た。会ってみたいと、 即座にそう思ったが、突然だったので彼女は返答の仕方に迷って少し濁した。
「……山に行く事はできるの?道は険しいって、この間言っていたから」
「実は秘密の道がある。君には教えてあげよう」
彼が顔を向けたのは、山麓に小さく広がる森だった。その奥には一ヶ所だけ、絶壁にならずに歩いて登る事が可能な斜面があるという。森には一人で入ってはいけないが、彼と一緒に二人で入るなら問題ないという。
お雪は彼を信用した。彼はこの谷と山の詳細を誰よりも熟知していると思えた。
山に行って彼の仲間に会ってみたいと勇むように伝えると、雪彦も優しい表情で応え、彼女を山に連れていく事を約束した。
但し荒れた天候時に山へ行くのは良くない、数日様子を見てから日程を決めると彼は言った。彼は夕刻前にはお雪が家に戻れるようにするという事にもかなりこだわった。それはお雪にとってもありがたい事であった。
その日、別れの時間の少し前に二人で山を眺めていた時に、雪彦は白い狐の親子が住んでいるという場所を指差した。彼は正確な位置を語らなかったが、北西の方角の山肌で峰を繋ぐ鞍部の陵線のやや下方の、木々が僅かに生えているような箇所に見えた。
お雪は雪彦以外の狐、特に白い狐に会える日を楽しみにした。彼とちょっとした一日の旅に出る期待に加えて、好奇心それ自体も心の傷を癒してくれるように感じた。
しかし次の日からは何日も荒れた雪の天候が続いた。
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