少し沈黙があった。
その直後、何かが戸をぶち破った。
それは飛んで入ってきて――噛みついた。少女の顔に。大きな口を開き、少女の左右の頬骨を挟むように顔面に噛みつき、そしてお雪は突然の眼前の光景を当初理解しかねたが、その何かは力任せに潰すように少女を喰い千切ったのだった。
何かが飛び散りほとばしり、それが体液であると気付くのにお雪はかなり時間を要した。
それよりも少女の凄まじい悲鳴が先だった。穴の空いた玄関戸に激しい飛沫が音を立てて散った。同じ少女に対し、その黒っぽい生き物は間髪入れず喉笛にも噛みついた。
お雪はようやく、恐らく何かの獣に人が襲われているという状況を認識し、突然の凄惨な絵図に心臓が張り裂ける思いだった。
襲われた少女は最早悲鳴もなく崩れるように倒れ、黒っぽい獣は跳ねて空中を飛んだ。
その刹那におのうは一目散に調理場へと遁走し、お雪を捕えていたもう一人の少女は奇声をあげてお雪を玄関口の方に突き飛ばした。お雪は絶望的な思いで玄関の前に倒れた。
だが獣はお雪を無視して飛び越え、むしろ突き飛ばした少女に襲い掛かったのだった。
もがき苦しむような悲鳴が上がった。二人目の少女は上から頭を丸かじりされ砕かれ、後ろに天井を仰ぐ体勢に倒れたがまだ息があって、あらぬ方向に手を泳がせ、嘆きとも悲鳴とも覚束無い声を口らしき場所から上げ続けていた。
「あふへへぇ、あふへへぇ」と呻くその声は恐らく助けを求めていて、お雪は助けようかとも思ったが腰が抜けて立てなかった。その声の調子に聞き覚えがある気もしたがこの時は記憶を辿るどころではなかった。そのうちに少女の腕は折れるように倒れ、声も消えた。
お雪は、まるで自分がこの少女を殺したかのような激しい胸の不快感に襲われた。
獣は調理場の方を向いた。曲がり角の壁に遮られ下半身しか見えなかったが、黒っぽい体は意外と小型であろう事にお雪は気付いた。先程は口が異様に大きく見えた。
「狐!狐、狐、狐。心之介!何とかして」と廊下の奥からおのうが狂ったように叫んでいた。それを聞いて、お雪はこの黒っぽい獣は狐なのかと思った。
「馬鹿!俺を盾にするな。袖を引っ張るな」と言う心之介の声も聞こえた。
「どうした!」という大声とともに廊下の反対側から音を立てて踏み込み、大刀を叩き下ろしてきたのは月衛門だった。その剣撃を獣は素早くかわし、異常な速さで玄関に向け走り、戸に空けた穴を抜けて去った。刃は板張の床を裂き、月衛門は舌打ちした。
その隙にお雪はようやく少し動けるようになり、這って腕を伸ばし玄関戸を開け、そして中途半端に草鞋を履いて外で何とか立ち、びっこを引くように屋敷の敷地から出た。
敷地の入り口付近に獣はまだいた。板塀の一つの縦板の先端上に、器用に座っていた。
尖った耳と鼻先。小柄な体に四本足、立派な尻尾、長い胴と細くくびれた腰の曲線。
それらは確かに……「狐」の一応の形をお雪に連想させた。他方で毛の色は濃く黒ずみ、あるいはくすんでいるとも言えそうなその色は、お雪には中々形容し難かった。その「狐」の口元は、気のせいか僅かに笑みを浮かべているようにも見えた。
不意にお雪は思った――まさかこれは、あの雪彦なのだろうか、と。
獣の見た目は、かつて出会った美少年とは似ても似つかなかった。色も形も何もかもが違う。見た目だけなら、調理場に置かれていたあの頭部の方が余程彼に似ていた。だが獣が獣は残忍ながらも結果的にはお雪を助けたので、もしやと思ったのだった。
全身も黒っぽいが目の付近はさらに黒い。目は開いているのかどうかも不鮮明で、瞳の色も判別できなかった。
お雪は思い切って尋ねてみた。「……雪彦なの?」と。
獣は何も答えなかった。そして塀を飛び下り、何処かへと風のように走り去った。
屋内から月衛門と刀を手に持った男達が出てきた。特に月衛門は、娘の事など蟻の如く踏み潰さんとばかりに直進してきた。お雪は慌てて、ぶつからぬように横にどいた。
「逃がすな、殺せ」と言う月衛門の声が響く中、男達は獣の探索をしていた。
髪を乱したおのうが、周りを確認しながら玄関から出てきたのも見えた。手には大包丁があった。お雪は怯えたが、とにかくこの隙に何としても逃げようと走った。おのうの舌打ちが聞こえたが、追跡の様子はなく、包丁も飛んでこなかった。
ほっとして少しばかり館を離れると、「おい、小娘!」と言う月衛門の声が背後からお雪の耳を襲い、足は硬直した。汗が彼女の首筋に滲み続けていた。
「今日の事は、一切黙っておけ」と月衛門は言った。
震えながら振り向くと大男の体と目ははっきりとお雪に向けられていた。お雪は僅かに頷き、再び前を見て駆け出した。足に力が入らず、時々横にぶれて千鳥足のようだった。
彼女が何とか井戸端まで戻ってくると、誰か女性がいた。母だった。
母が娘の名を叫ぶように呼ぶと、お雪は力なく「母上……」と母を呼び返した。
躓き、転びそうになって、母は素早くそれを支えた。
「お前、何しにそっちに行ったのさ?用もなく遊びに行くなっていつも言っているのに。どこかへ急に消えたから、野や家の周りをずっと探して。でも全然いないからこっちの方に来たら、うちの桶が転がっていて。この男達に聞いても曖昧な事しか答えなくて……」
母は目を細め、割と近くにいた何人かの下層の男性達を見た。彼らは声が聞こえたのか、皆が皆、目を素早くそむけてすぐに遠くへと立ち去った。母は口を結んで彼らの後姿を睨めつけていた。そしてしばらくすると目は再びお雪に向けられた。
「やっぱりお前が自分からあっちに行くはずはないね。一体何があったの。お話し。お雪」
母は左右の手でお雪の両肩を強く掴んだ。先程月衛門から黙っていろと念を押されたばかりであったが、母も凄んできた。そこでお雪は、いずれ暴かれるとも思い、刺青の件については白状した。ただし調理場での事と「狐」らしき獣の事は黙った。
「何だってぇ!本当かい」と母は声を荒げた。剥くように見開いた目はお雪を恐怖させた。
母は月衛門の屋敷の方角を見て一層恐ろしい顔をし、彼らを徹底的に口汚く罵った。
お雪は慌てて、他の事はされてないと弁明した。実際は階段から投げ落とされ平手打ちも食らったが、それらは伏せた。そしてこれまでお使いを敢えて任せられてきた本当の理由を、何となく察した。常に喧嘩腰の人があっちに行くとそのまま喧嘩になる。
母をようやく宥め終えてお雪は水を汲もうとしたが、母が代わりにやってくれた。汲まれた水が桶に移されると、その場でお雪は手を洗って水を少しだけ飲んだ。
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