狸の爺様は怪談話が好きらしく、白狐塚の谷の名も知っていた。この付近の土地ではいわくつきの地として結構有名らしい。温泉に入っていた爺様と子狐達はその話で盛り上がりつつあった――とは言っても基本的には爺様が子狐と女性に絡んでいるのであったが。
「山から谷に安全に接続されている道は限られている。たった四つしかない」
湯につかりながら、聞かれたわけでもないのに狸爺様は自慢顔で語り始めた。
「とても詳しいのですね。谷に行かれた事があるのですか?」と女性は言った。
女性は子狐を両の腕で抱き締め、さりげなく爺様の目線から胸元を隠していた。爺様は目の角度を色々変えてみながら、惜しそうにホホホと笑った。
「黒狐衆の一人から聞いた話なのだよ。あやつらは詳しい。あの谷は地獄に通じると」
子狐が不安そうに耳を伏せると、爺様は逆に嬉しそうに笑った。
「奴はそう言っていた。四つの道はどれもこれも死者の道。まず一つが獄門峡――これは、処刑場として密かに使われたという場所で、犯罪人の晒し首がそこら中にあるという……ここが谷の呪いの起点だとも言われる。何と恐ろしい!」
子狐はいよいよ困って、女性は動じる様子もなく静かだった。爺様は続けた。
「二つ目は狐地蔵の坂。これは大変危険な坂。通る者はとにかく生きては帰れぬ。異なる二つの世を分かつとも言われ、六つ並ぶ奇妙な地蔵が目印らしい……三つ目は修羅の崖と言う。猛者だけが登れるが、崖の上で子供が毬をついて遊ぶ時には決して近寄ってはならぬという……魔物が地に隠れていて通る者に容赦なく噛みつき、決して離れぬと」
子狐は女性に身を寄せた。そこまで言って、爺様は指で自分の鼻と髭をいじった。
「――で、四つ目は何だったかな。ううん。名を思い出せぬ」
「赤狐門ですね」と女性は言った。子狐は彼女を見上げた。
すると、爺様は実に感心するようにうんうんうんと数度頷いた。
「うん、確かそんな名前だ。その先には血の川があり超えてはならぬ一線があると……」
もう子狐には十分だった。怪談話は夏だけにして欲しい……彼は切にそう思った。
「あっはは。仲良く風呂に入っているところ、怖がらせてすまぬ。すまぬな、子狐。ま、とにかくそこには行ってはならぬという事よ。分かったかな、お二人さん」
「はい。ありがとうございます」と女性は言って子狐の耳を優しく撫でた。
狸爺様は満足げに笑って湯から上がり、何かの歌を口ずさみながら、裸でぶらぶらと愉快そうな足取りで立ち去った。子狐は息をつき女性に擦り寄り、女性は子狐を抱き締めた。
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