第二章:死者の唄①【雪降る白狐塚の谷】

 お雪は男女の区別がある事を知っていた。だが仲のよい男子はおろか、集落には友達と呼べる者すらもいなかった。それが常態だったから慣れていた事ではある。男女のお付き合いなるものは、物語の中の幻想物とほぼ同じものと彼女は認識していた。
 集落の中では幼子同士が遊ぶ光景すらお雪は滅多に見なかった。時々見かける男子は、齢は不明だが小柄な彼女よりもさらに背が低く、時折袖の裾から覗く腕は細く手は小さく肌は乾いた様子で、小さな口からは言葉をほぼ発しない。彼らの目は大体が少し虚ろに見えた。
 下層の家々の子供はほぼ男児で、お雪だけが唯一の幼い娘のようだった。
 お雪に対しては、齢の近い子供よりもむしろ大人の方が頻繁に接近し関わってくる。
 昨年のある時、集落の中で一人の男児が躓いて転んだのでお雪は傍に寄って手を貸そうとした――すると、彼女はすぐ近くにいた親らしき女性から怒鳴り散らされ滅茶苦茶に叱られた。
 その時にお雪は何の悪しき事をしたか分からず、何を具体的に言われたかもよく記憶していないが、よその家の子に触れるなとかそういう事のはずだった。その時に彼女は相手にひたすらに謝って許してもらえた。
 また日常的に、井戸で水汲みをしている時に順番待ちの大人がいると、大抵は女性からだが早く済ませろと小言が来る。
 お雪はそんな時も、とりあえず謝る。
「ごめんなさい、もうすぐ済みます」と釈明するのが常である。

 他には、ある家に「狐婆様」と呼ばれる老婆がいた。
 集落の男性達がその人を見て「全く、あの狐婆様は……」と言うのをお雪は何度か聞いていた。
 確かにその老婆は何かと狐、狐と連呼する口癖があった――それで、お雪も当人の事を心の中ではそう呼んでいた。
 狐婆様は頻繁にお雪の事を捕まえた。お雪が集落の中を歩いていると、どこからかふと現われる。お雪は色々と話しかけられる。
 婆様は足が悪いと思われた。常に杖を地面に突いて前のめりに体重を支え、足を引きずりながらゆっくりと不規則的に歩く。
 その顔には濃い褐色の染みが頬や目の周りに幾つもある。肌は色黒く深い皺の曲線が多く刻まれているのだが、その表面は意外と艶があるようにお雪には見えた。着物は大体いつも同じ物と思われ、あちこちで糸がほつれてぼろぼろであるが色褪せた何かの模様がうっすらと見える。髪は雑に結われ、灰色である。前髪は全て後方に向けて結われており、額に垂らされない。
「これ……お前は狐を敬っているか?ほれ。狐」と婆様は、何か埃っぽい臭いが鼻に明確に伝わってくる程に娘に接近して言う。
 相手の腰が極度に曲がっているため、お雪は僅かに顔を上げるだけで目を合わせる事ができた。相手の瞳はお雪が心配になる程に酷く濁って見える事が多かった。
「この集落は昔から、狐のおかげで成り立っている」と瞳が濁った相手は言う。
「集落の者は皆、キツネにカンシャせねばならぬ、お前もキツネを敬え」とお雪に対して繰り返し言う。
 相手は杖を手にしていない側の右手を掲げ、何かを掴もうとするような仕草を頻繁に見せた。そのような時にお雪は顔か首を掴まれるような気がして、さりげなく一歩か二歩後ろに下がる。相手の手は大きくなかったが、浮き出た腱と静脈の動きを見ると不気味な力強さと何かの欲求を娘は感じた。
 唐突に、杖で地面を叩きながら娘を叱り付けてくる事もある。
 曰く、お雪の母は当然のようにマツリに出ない……キツネにカンシャをしない、と。
 とにかく悪いオンナであると、なじる。
――婆様は、母上と仲が悪いのだろうか?きっと仲が悪いに違いない。 
 悪口を言いたい事はお雪にも大体分かったが、それ以外の事は把握できなかった。
 何に「出ない」のかお雪は最初聴き取れず、ある時にようやく発音を認識してもその内容の知識が無かった――母からは、それについてお雪は何も聞いていなかった。
 母の事に言及する時、決まって老婆は急に何かが気に喰わぬ様子になり口調を変える。茶色の唇がうねり、下方に傾斜しながら横に広がっていくのを見るとお雪は少しだけ怯える
 お雪がうっかり荒野で迷子になった日以後には、婆様は常に怒っていた。
「狐に見捨てられたらこの集落は滅ぶ。お雪の母親が悪い!」と相手は罵った。
 用事があって集落内を出歩く度にお雪は婆様に捕まり叱られたが、その事を母には一切告げなかった。
「狐が怒っている!」と婆様は言った。
 曰く、狐に見捨てられたらこの集落は滅ぶ。お雪の母親が悪いと相手は罵った。
「あの女はふしだらでそこらを遊び歩くし、集落の決まりも平気で破るし、そんな所から生まれたお前は本当に汚れた娘である」
 相手の表情には何か焦燥感が見られた。顔には汗が見られる事もあった。だが何を言いたいのかは、お雪には益々分からなくなった――とにかく口汚い言葉に心が傷付き、母への悪口も不快だった。


 ある日、お雪は母からお使いを頼まれて外に出ていた。風はあまり無い日だったが日が差さず、空は一面薄く曇っていた。
 狐婆様は娘を捕まえた、集落の大体中央に位置する井戸の傍を通り過ぎようとした時、相手は待ち構えていたように家から出てきて接近し、お雪の行く手を阻んだ。
「この、狐を怒らせる汚れた娘!」
 相手はいきなり言い放ち、右手に持っていた木の杖を振りかざし、音が響く程にお雪の左目辺りを強く殴りつけた。
「痛い!」
 お雪は声をあげて後退りし、打たれた部分の辺りを左手で覆った。
 布にくるまった小さな手荷物がお雪の両手を離れ、地面に落ちた。金属音がしたが包布の結び目はほどけず、中身の物は散らばらずに済んだようだった。
 集落の下層身分の男達は、日頃娘が叱られようがそ知らぬ顔でいた。だが今日は何かをやましく感じたのか、近くにいた三人が止めに入った。
 彼らは口周りや顎に髭を茫々に生やし樹皮のように色黒く乾いた肌の男達で、お雪は慣れていたが皮脂か何かの独特の体臭があった。
 やめるようにと一人が婆様に言ったが、婆様は向き直った。
「いやいや!こいつが悪い、こいつと母親が全て悪い……」
 男は顔を歪めてこんな娘に言っても何も始まらないと相手をたしなめたが、婆様は狂ったように「こいつらのせいで、狐が」と繰り返した。その表情は段々と泣きそうになっているようにも見えたがお雪は自分の方が泣きたい気分だった。
 その間にお雪は密かに男達の背後に隠れ、縮こまっていた。それに気付いた狐婆様は獲物を狩り出すように娘に顔を向け睨め付けて、再び杖を振り上げた。
 既にお雪は打たれた目を小さな片手で覆っていたが、もう片方の腕も上げて自らの顔をさらに覆った。
 男性の一人は唇を突き出して少し唸った。いい加減にするようにと彼が声を多少張り上げると、狐婆様は怯み、逃げるように通常の倍程の速さで自らの家の方へと歩き去って行った。
 その家はお雪が住む「犬小屋」よりもさらに小さく、壁の木材は荒れた様子で劣化が進んでいるようだった。
 婆様は時々恨めしそうに振り返り、元から細い目をさらに細めていた。それをお雪は警戒しながら見ていた。老婆の黒ずんだまぶたが離れた位置からでもよく目立った。
 家の戸は閉じられて老婆は姿を消した。
 男達は厄介者が消えたのを面倒そうな顔付きで見届けてから、各々の目を娘に向けた。彼女は片腕を下ろしていたが、もう片方の腕の手はまだ目を覆っていた。
 男性の一人は、殴られた箇所があざになっていると指摘した。
「血は出てないみたいだな」
 お雪は手を少しだけ左目から離し、見てみた。確かに出血は無いようだった。
 もう一人は、何か用事があるなら早く済ませてこいと言った。その通りだった。老婆に用があって外に出ていたわけではない。
 別の一人は念を押すように首を伸ばして娘の顔を覗き込み、母親には告げ口をしないようにと言った。
「うっかり派手に転んだとか、何かにぶつけたとか何とか……自分で、適当に考えて……言い訳をしておけ」
 言葉の最後が特にお雪の耳に妙に残った。
 言い終えると彼らは娘から離れ、それぞれが微妙に異なる歩幅で別々の方向に散って行った。彼らの一人の草鞋とその上の素足がお雪の目にふと入ったが、足首は意外な程に細く見えた。
 少し遠くの所で別の男達がぼろぼろになった廃屋を解体していた――釘を抜き、板を剥がし、ナタで板をさらに細かく割っていく。
 廃屋を構成する木材の殆どは燃やす以外に用途がないらしく、できるだけ細かく砕かれて冬場に火を維持する燃料として消費される。
 一人になったお雪は左手を左目の上に再び置き、目の周りを手でさすった。彼女は疲れたように一度その場にしゃがみ込み、先刻地に落ちた荷物を拾った。そしてため息をついた。
 ――痛かった。お雪は思った。
 大人から軽く肩や背を小突かれる事は割と日常茶飯事だったのだが、顔をぶたれるのは初めての事だった。この時に集落内の音はお雪の耳に入っていなかった。
 ――母上から言われたお使いを済ませないと。
 お雪は腰帯が緩んでいないかを確かめ、片手に荷物を持ってふらふらと歩き始めた。
 傍には井戸があった。物を言わない井戸とそれを覆う木組みの屋根にお雪は妙な親近感を持った。

 比較的大きい一群の家々が見えてきた。集落の上の身分の人々がそこに住んでいる。遊びには行かぬようお雪は母からいつも言われているのだが、お使いで訪れる事はあった。そして用事が住んだら即刻、どこにも寄らずに帰って来るように言われる。然るべき用があって行く分には、大きな問題はこれまで一切起きていない。
 本当はお雪をお使いに行かせたくないと語る母は、上の身分の者達が苦手らしかった。お雪は子供ながら母のためと思い、お使いを引き受けていた。
 ある二階建ての家に、お雪は真っ直ぐ向かった。そこはお使いでは何度か来ている家だった。
 敷地を囲む板塀は、多くの縦板と横木が隙間を空けて格子状に組み合わされて作られている。
玄関前の構えには威厳があって「犬小屋」とはまるで異なるようにお雪には感じられた。
 玄関の戸は開いていた。
 土間と廊下を隔てる上がり框に一人の男が腰掛け、そこで刀の手入れをしていた。濃い赤褐色の框にはどっしりと太い角材が使われており、段差は高く、お雪の膝下辺りまであった。
 男はいつもお雪がお使いで荷物を手渡している相手だった。
 彼の齢は分からなかったが見た感じでは比較的若いはずだとお雪は思っていた。口髭は無く、顎の無精髭は手入れがされているのか短く、濃くない。髪も短くしていた。大柄で肩幅が非常に広く、腕は袖越しでも太い事がよく分かった。
 男が手入れしていた刀は、反りの小さい打刀である。それはいかにも重そうで、男は厚手の布で刃の面をじっくり拭きながら、その輝きを満足そうに眺めているようだった。
 下層の身分の人々は、このような刀は所有していない――もっとも、実はお雪の自宅の奥には刀が置かれており、お雪はそれが母のものだと知っていたのだが。
 とにかく目当ての相手が玄関口にいたので、お雪は他の誰かに男を呼んでもらう手間が省けた。この家の人達はお雪に対して露骨に悪口を言う事は無かったが、蔑むような視線といかにも面倒で迷惑そうな物の言い方が彼女は好きではなかった。
「あの」とお雪は恐る恐る近付いて小さな声で言った。
 相手はまるで反応せずに刀の手入れを続けていた。娘の声が小さくて耳に入っていなかったのかもしれない。
 だがやがて男は目の前の娘に気付いたのか、顔を少しもたげて目を向けた。
「おう。おめえか」と彼は言った。
 男は、名を腕吉と言う。お雪に対して自ら名乗った事はなく、お雪の母も娘に対してこれまで一切語っていない。
 だがこの家の人達が彼に「ウデキチさん、腕吉さん」と言うのをお雪は何度か聞いており、それが名前だと分かっていた。
 逆に腕吉がお雪の名を知っていたかは定かではない――彼は「お前」「おめえ」「てめえ」等の類の言葉で常にお雪を呼んでいた。

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