第二章:死者の唄②【雪降る白狐塚の谷】

 お雪は緊張しながら、冷静にお使いの用事を済ませようとした。
「……母上からのお使いで、物を持ってきました」
「そこに置いとけ」
 それがどこなのか判然としなかったが、お雪は忍ぶように歩み寄り、男が座る傍の床に布の小包をそっと置いた。刀の鋭そうな刃の曲線は、常にお雪の側に向いていた。
「ありがとよ」と腕吉は軽快に、しかしお雪ではなく自らの刀を見ながら言った。
そして一通り手入れを終えたのか「こんなものだな」と呟き、彼は刀を鞘に納めて廊下の床に置き、お雪が置いた小包を手に取り結び目をほどいた。
 中身は木箱で、蓋を開けると輝く小型の刃物が重ねられていた。母が研いだ刃物だった。
 それらは包丁よりも一回り小さく細い刃物である。料理用のものだと母は言っていた。
 母は畑仕事をしない時には織物等の他に刃物の研ぎをする事もあった。お雪もやり方を教わり手伝う事があり、稀に色気のような金属の輝きについ心を奪われそうになる。
 腕吉は刃物の一つを親指と隣の二本の指でつまみ上げ、自らの眼前で眺めた。刃は銀色に輝いており、相当鋭利である事はお雪にも分かった。
「へへへっ。相変わらずお前の母親はいい仕事をする」と腕吉は言った。
そしてお雪が顔の半分を手で隠している事に今更ながら気付いたかのように、彼は彼女に目を向けた。彼の手には刃物がまだあった。
「――何だ、目をどうかしたのか?どうしたよ。どっかにぶつけたのか」
「あの、それは、その……」
 お雪は少しもじりながら、うつむいて小さな声で「転びました」と先刻教えられた嘘をそのまま吐いた。腕吉は刃物を箱に戻して娘をじっと見つめ、そして大きく笑った。
「ははは。意外にもドジだな……気を付けろよ?お前も母親に似て美人だからよぉ」
 腕吉は機嫌が良さそうだった。容姿を褒められるのはお雪にとって意外だったが、この場でのお褒めの言葉はいかにも皮肉か冗談の可能性が高そうだった。
 お雪は軽く挨拶して去ろうとした。
 腕吉は木箱を閉めて横に置いたがふとお雪に目を遣り「おい」と呼んだ。お雪は驚いて地から少し飛び上がった。彼女が振り向くと、腕吉は目を細め、可笑しそうに口を一文字に広げて笑い、そして懐から何かを出した。紙で巻かれた小さく平たい包みだった。
「これをやるから持って行け」と彼は言って腕を伸ばし、それを差し出した。
「え?」とお雪は言い、先程の驚きが収まらぬままに小さな包みと腕吉の顔を見比べた。
お雪は包みを片手に受け取った。見かけよりは重く、大きさは彼女の手の平に収まった。
「これは何でございますか?」とお雪は尋ねた。
「狐の肉だ」
「狐――?」
「持って帰って、母親と一緒に食え。上等の部分の肉を親方から幾らか分けてもらった。くれてやるのは特別だぞ」
 親方というのは、集落の頭領の事を指している。集落の者は頭領をそう呼ぶ。
「は、はい。ありがとうございます……」
「ちなみにまだ若い狐の肉だ。柔らかくて美味ぇぞ」
腕吉はそう言って笑い、先程とは別の刀を背後から取り出し、ゆっくりと鞘から抜いて手入れし始めた。彼はそれに目を向けて集中し始めて、それ以上何も言わなかった。
 お雪は「それでは失礼します」と言って小さく頭を下げ、妙な心持で改めて帰路に向けて振り返りその場を去った。帰宅中に空の彼方を見つめると雲は淀み、鈍い動きだった。 
 いつか野で、お雪は「狐」を遠くから見た。胴が長く尻尾の毛は立派で、孤独に丘の陵線上を静かに歩いていたその小さな動物。それが犬ではなく狐だと彼女は理解していた。

 帰路では狐婆様は現れなかった。お雪は安堵の息をついて帰宅した。
 母親は土間で石釜戸に向かい調理をしていた。まだ夕食には早かったが、きのこの匂いがしてお雪は楽しみにした。母はたまにお雪が知らない場所からきのこを採ってきた。
「母上。ただいま帰りました」
「おや。お帰り、お雪。お使いどうもありがとう」
母は鍋に木蓋をした。機嫌が良いのか、表情は柔らかい。
だがそれも束の間の事で、母は娘が手で目を覆っている事に気付くと、途端に怒ったように皺を美しい顔の眉間に寄せた。
「ちょっとお雪。どうしたの、お前――顔に傷でもつけたのかい」
「え?あ……いえ、母上、その」
 詰め寄るような母の言い方と形相が怖くて、お雪は下を向いてしまった。そして歯がゆくも「転びました。その時に強く打ってしまって」と再び嘘を言った。
 男達が怖かったか。それとも狐婆様をかばう気持もあったのか。お雪には自分自身の気持と判断基準もよく分からなかった。
「本当に?」と母が娘に顔を近付けて表情を一層凄めた。
「は、はい――」とお雪は言ったが、母の目は明らかに娘の言葉を疑っていた。
「まさか、腕吉の野郎にやられたとか?あのでかい若い男さ。物を届けている家にいる」
「え?い、いや、それは……」
「だとしたら悪かったね。私が悪かったね。今度からはお前に任せないで私が行くから。……あのどうしようもないろくでなし、人の娘に」
「い、いえ、違います!本当に、違います」
 腕吉の名が母の口から出るのは、お雪が記憶する限り初めてだった。言葉から判断すると母は彼を相当嫌っているようだ。普段の母は、露骨にそれを明言してはいなかった。
 娘の口調と態度から「嘘」ではないと判断したのか、母はゆっくりと表情を緩めた。
「だったらよいけど。転んだにしても、随分と派手にやったね?滑ったのかい。気を付けなよ……薬塗っておこうか。手、離してごらん」
 母は着物の懐から何か取り出した。小さな陶器のような入れ物には軟膏の塗り薬が入っていた。母は薬を細長い指ですくって、お雪の左目の周りに広げるように塗った。
「痛っ!」
「染みるかい?」
「いえ……大丈夫です、母上」
「よく効く薬だから、痛みはすぐ取れるはずだよ」
 母の言う通り、刺すような感覚があったのは最初のうちだけで、ずきずきと中で締め付けるように蠢いていた痛みは徐々に引き、少し経つと痛みすっかり消えてしまった。お雪は最早傷を手で押さえなくても平気だった。手で付近を触っても痛みはもう無かった。
 釜戸の中の火が燃え盛り、鍋の中からは小気味よく煮沸する音が聞こえた。
 母は安心したのか、鍋の前に戻ろうとした。その時、お雪は「肉」を腕吉から貰った事を思い出して着物の襟の間に手を入れ、懐にしまっておいた例の物を取り出した。
「母上。お使いの時に、これを貰いました」
「ん?何だいそれは?……腕吉から貰ったのかい」
「狐の肉だと言っておりました。母上と一緒に食べるようにと」
すると母親の目が異常に素早く動いたので、お雪は再び怯えて数歩下がった。
「どれ、見せてごらんよ、お雪」と母は敢えて優しく接するように言った。
 口元は穏やかながら鋭い目付きのまま母は腕を伸ばし、平たい紙包みを手に取り開いた。
 出てきたのは赤黒い何かの切れ端で、干し切っておらず湿っているようだった。
――肉。お雪はそれを家で食べた記憶がないが、動物の体の一部という事は知っていた。
 母はそれに鼻を近付けると再び表情を曇らせ、くんくんと臭いをかいだ。そして目を細めて赤い物体を深く凝視し、包み紙ごと火の中で投げ捨ててしまった。 お雪は思わず呆気に取られた。紙にはすぐに火がつき肉もすぐに変色し、鼻につく臭いがした。
 そして母はお雪を見て、うっすらと笑みを顔に浮かべたのであった。
「あのね、お雪。狐の肉っていうのは美味いものじゃなくて、生臭くて食えないから。あの男、小さな娘をからかって。今度言われたら、いらないとはっきり断りな」
 お雪はさらに呆然とした。肉は黒い煙を僅かに出しながら炉の中で消えて行った。
 夕食はきのこと野菜を煮た汁で、久しぶりに豆腐も入って豪勢だとお雪は思った。豆腐作りはお雪も母を手伝う事があった。最近はそれを手伝った記憶があまり無かったが、母は密かに作っていたのだとお雪は思い、日中の事は忘れ母との食事を楽しんだ。
 その晩、そろそろ寝ようと思いお雪は布団を敷いた。
 母も寝巻に着替えて布団の枕元に座し、髪結いをほどいた。そして長い髪を体の正面に移動させ、丁寧に梳かしながら再び束ね始めた。集落の他の家はどうか分からないが、お雪と母は寝る時に髪をそのようにしていた。
 母は前髪の一部を後方には結わずに額側に細やかに垂らしていた。母の普段の後ろ髪はお雪の髪型と似ていたが、髪を束ねる位置がより高く、よりふんわりとした感じで「尾」を連想させた。お雪は自分よりも母の方が髪に大胆さと豪快さが見られる気がした。
 母の芳香がお雪の鼻元にも漂ってきた。母からは常に落ち着くような良い匂いがする。
寝巻姿の母の胴を見ると実にしなやかそうで、反りの曲線にお雪は思わず見惚れ、その姿形に刺激されてか急に狐の事を聞いてみたくなった。
「母上。狐とは、妖術を使えるものなのですか」
 唐突にそう尋ねた娘に母は顔を向けた。母は髪を木製の櫛で梳かしていた。
「なぜそれを急に聞くの。お雪」
「……いえ、単に聞きたくて。その」
 燭台の上に置かれた蝋燭の火は静かにゆらめいていた。
「術ねえ。そういうのを使える狐もいるのかも。妖狐ってやつさ」
「どのような術を使うのですか?人に憑いたりするのですか」
 お雪が息を呑んで聞くと、突然に母は悪戯っ気に、妖艶な流し目をお雪に向けてきた。
「例えば雄の妖狐は、人間の女をたぶらかして誘惑する術を使うのさ」
 お雪は「え?」と素っ頓狂な声を出し、目をしばたたいた。母は何か嬉しそうだった。
「お前みたいにいい女を見つけると寄ってくるの」
「は、はあ……狐が」
 お雪は、ただ頬を赤らめた。自分が狐のお嫁に入る姿を少し思い浮かべてみたが、全く滑稽な図にしかならなかった。母は横になって右腕の肘を敷布団に突き、体を娘の方に向けた。寝巻の袖は少し捲れて白く美しくも逞しそうな張りの前腕を覗かせており、お雪はまた思わず見惚れた。
そうしているうちにふと、母の表情は真剣に変わって見えた。
「狐が自分の肉を差し出してきたら、それは絶対に貰わないように」と母は言い、右手の差し指で布団をとんとんと叩き「絶対に貰わないように」と繰り返した。
「狐がそういう事をするのですか」
「そういう事をする。狐の女の子が、肉は要りませんかと差し出してくる」
「貰ってしまうと何が起きるのですか」
「隠し持った刀で、滅多斬りにされてしまう」
「えっ!」
「まあまあ、それは怖い話」
 そう言う母は既に可笑しそうに笑っていた。お雪は肩をすくめ唇をすぼめて、上目遣いで母をじっと見つめた。母はくすっと笑って、上体をゆっくりと起こして首を少し回した。
「さ、もう寝るよ。お雪」
 母は燭台の近くに顔を近付けて、蝋燭の火を一吹きで消した。火が消える時のぼうっ、という音が妙にお雪の耳に残った。

 朝起きると体調はすっきりしていたが、それでもお雪は憂鬱だった。
 ――目の周りにあざが残っている。しかも目立つ。婆様に殴られた場所だ……。
 痛みは完全に引いていたが、鏡を見て中々酷いと正直思った。母も娘の顔を見てそれに当然気付いたはずだが、言及は一切しなかった。それはお雪にとって却って不気味に感じられた。
 朝食前の一仕事として、お雪は木製の手桶を持ち水汲みに出かけた。
 その道中で集落の大人の男達が数人、また一つの廃屋を壊しながら話をしていた。作物が育たない時期になるともう彼らはこういう仕事くらいしかする事がないようであった。
 彼らの声がお雪の耳に入ってきた。作物の出来が悪いとか、親方はずるいとか。今年は冬を越せないかもしれないとか……そんな話のようだった。
 母は以前に言っていた。
「昔は谷の外から数少ないながら行商人が定期的にやって来たらしいけどね。最近ではぱったり来ないよ」
 お雪はそれらの人々を一度も見た事がない。お雪はそれらの人々を一度も見た事がない。
 その時に男達はお雪の存在に気付いたのか、一斉に彼女を見てぱっと黙った。お雪は慌てて聞いていないふりをして、気まずくて目をそらした。彼女が歩く足音だけがその場に響いた。
 男達はお雪を見ていた。短い丈の枯草が、雪に混じって道端に多く生えていた。
――会話を聞いた事は別に問題なくて、それよりも目の周りのあざを見られたのかも。
 お雪は急にそう思って恥を晒した心持となり、何とかあざを隠そうと思い、うつむき加減に手で前髪を少し顔の左側に寄せた。
 井戸まで来てお雪は一息つき、備え付けの釣瓶を井戸底に落とした。石の縁で丸く囲まれた井戸は、四本の細い柱で支えられた屋根で覆われている。その木製の 柱や屋根は一見粗末だが、冬場の雪の重さにも耐えて潰れない頑丈さを備えていた。
 釣瓶を引き上げると彼女は水を自分の桶に移した。
――狐婆様は、どこにもいない。よし……。
 胸を撫で下ろし、彼女は廃屋を大きく迂回して帰宅した。先刻の男性達の前は再度通りたくなかった。

 それから数日が経ったが、左目の周りのあざはまだ大きく残り続けた。
――これはまさか、一生消えないのかも……
 お雪は毎朝鏡を見つめるたびに、そのように恐ろしく思った。

 数日後、狐婆様は現れた。朝の風は氷のように冷たかった。前日の夜に雪が降り、集落内には雪が少し積もった。雪掻きを少しだけして、お雪は水汲みに井戸へと向かった。
 すると婆様の後ろ姿が見え、間違いなく本人だと思ってお雪は足を止め、身構えた。
 だがその日はいつもとは様子が異なった。お雪から見て丁度井戸を向くように老婆は膝を曲げ雪が残る地に座し、それを囲むように下層の男達がまばらに立って いた。はてなとお雪は思い、儀式的にも見える彼らの配置をしばし見つめていた。男達は彼女に気付いたようで一人二人と目を向け始めた。お雪は桶を持たぬ手と前髪で左目を隠した。
 家に帰りたくなったが、水は欲しかったのでお雪は再び井戸へと足を進めた。

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