第一章:狐の唄②【雪降る白狐塚の谷】

 ――なら、家に戻るには単純に逆戻りすればいいのかな。
彼女は知恵を使ってそう判断し、その場で振り返り反対方向に歩き始めた。
 だが歩き続けても集落は中々見えず、足を速めても一向に戻れる気配が無く、お雪は再び立ち止まった。狐にでも化かされているのかとも思った。気のせいか何かが傍にいる気もして、冷気が首筋の汗に触れた時には何かに舐められたかとも思った。
 風が強まる中、ようやく遠くに何かが見えてきたと思えば、それは集落ではなかった。
 白色に広がる、何かに囲まれた地形だった。
 ――雪原?
 お雪は足を止めて思った。周囲とは隔てられているその奇妙な地形はまだ幾らか先の場所にあったが、果ての遠くではなくもう少し歩けば辿り着けそうに見えた。
 周囲が薄暗くなり始めた中で目を凝らすと、その場所には僅かに薄くひび割れたような、しかし規則正しくも見える細かい模様が全面にあった。お雪は広い岩場かとも思った。想像力を働かせ塩の原かとも考えた。荒野の窪地では稀に小さな塩の塊が転がっている。
 集落が忽然と消えてしまって跡地を見ているのかとも思った。そして益々狐に化かされているように彼女は感じ始めた。
 だが次第にお雪は好奇心が勝り始め、やがて光景に魅かれ始め、不思議な懐かしささえ感じて近寄りたくなった。
 お雪は歩き始めた。だが少し進んだ時、ふと何気なく右方に目を遣ると彼女の気をそらすものがあった。
 ごく低い丘の上に、幾つかの岩と数本の木々があった。それらは周囲から孤立し、そこに集って憩う姿にも見えた。
 お雪は少し冷静になったように勇む足を止め、それらが気になって進行を右直角に転じ、なだらかな斜面を登って行った。まだ柔らかい粉雪が斜面には既に積もり始めており、彼女の足跡が小さく点々と残った。降る雪は細かくたくさん、空から落ちてきた。
 憩いの場所に来ると、雪を被った大小の岩は生えるように地からそびえていた。数本の木々は岩の間を縫うように直立していた。それらは松なのか檜なのか別の木なのかお雪には分からなかったが、三本だけのあの兄弟の木々よりもどっしりと立派に見えた。
 お雪が何気なく視線を足元に転じると、他とは異なる「岩」があった。それは明らかに誰かの手で柱状に整えられて立っていた。お雪の膝下辺りの高さまで小さく立っていた。
 方形の断面を持つ石柱の前でお雪はしゃがみ込んだ。
 そこには少しかすれた文字が刻まれていた――「白狐塚」と彫られていて、それはここの谷一帯の名称であった。お雪は母親から教わって、その齢の集落の者にしては文字の読み書きが非常によくできて、書物もある程度読む事ができた。
 さらにふと左隣に目を遣ると、上方を仰ぐように僅かに傾斜した大岩の側面に、均したように平らに削られた部分がある事にお雪は気付いた。
 そこには文字が刻まれていた。文章であった。お雪はしゃがんだまま岩に近寄り、側面の雪を手で払い落とした。
 細かい文字は崩れかかり、周囲は暗くて非常に読み辛かった。それでも途中までは何とか読めた。
 ……こんこん山の中 山の中 
 母親探して 歩き回り 
 里を求めて こんこん鳴いて 
 雪の上に 足跡残して ……と縦書きで彫られていた。
 ――何かの童謡の詞だろうか?お雪は考え込んだ。
 前半の句の方にある「母親」の二文字は他の文字と比して相当崩れかけていた。
 周りはいよいよ真っ暗になりかけていた。
 その時に何かが、自分の名を呼んでいるようにお雪には聞こえた。初め空耳だと思った。風の音かとも思った。惑わす狐の声かとも思った。色々思いが巡った。
「お雪!お前何で、そんな所にいるの」
 声は斜面を下る方向から聞こえた。少し離れた位置に立っていたのは笠を被った母だった。
 お雪はそれに気付くと驚きで目を見開き「母上」と声をあげ、立ち上がった。もしや誰か別の者かも――と不安が一瞬頭をよぎったが、駆け寄ると確かにそれはお雪の母本人だった。
「全然戻って来ないから、おかしいと思って ――ちょっと。雪が凄い」
 白い手がお雪の頭や肩の上の粉雪をぱっぱと払った。確かに母の白い手だった。
「こっちには行くなと、以前に言ったじゃないか?……まあとにかくいいから、帰るよ」
 他には母の小言は無かった。母は自らが被っていたものとは別にもう一つ笠を持ってきていて、それはお雪に手渡された。お雪は笠を被って顎紐を結び、母に手を連れられ歩き始めた。荒野に積もりつつある雪を踏みしめる度に、ざっくざっくと音が鳴った。
 さて母と娘は、不思議な事にあの三本の並ぶ木々の方へと向かってい
 ――あれ、おかしいな。
 お雪がそう思っているうちに、それらは後方へと過ぎて行った。夕刻の闇の中、前方には降る雪に混じって集落の姿が僅かに見えてきた。
 そこでお雪は認識した。自分は荒野を回りに回って、集落から見て問題の地点の裏側に行ってしまっていた。
 ――そうか、逆から見ていたのね。怖がる必要も焦る必要も無かったんだ。安心したけれど、何だか恥ずかしい。
 お雪は歩きながら顔が火照り、体中に異様な暑さを感じた。
 家に戻るとお雪は濡れた着物を脱ぎ、湯で体と髪を洗って白い寝巻に着替えた。こんな土地では燃やす物を掻き集めるのも立派な仕事になる程の手間であったが、母は浴するための湯を頻繁に沸かしてくれた。
 その後、お雪は母と共に食事をとった。芋と野菜が煮込まれた汁を飲み、お雪は体が温まった。
 意外にも母は娘をうるさく責めなかった。むしろ「体は冷えていないかい?」「足はくじいていない?」と、食事中に娘の事を気に掛け続けた。
 お雪は自分が荒野で見たものについて疑問を持っていた。しかしそれを母に尋ねれば不問にされた事を蒸し返して叱られると思い、彼女は疑問を心中に封じた。
 その晩、一枚だけの布団にお雪は母と一緒に入った。真冬の特に寒い夜にはお雪は母に体を密着させて寝る。今はまだその時期ではないが、この晩は意識して彼女は母に体を寄せた。母は気にするようでもなかった。寝巻の袖越しにお雪は母の腕に抱き付いた。
 そしてお雪は朝までぐっすりと眠りに就いた。
 後日にお雪は再び荒野に出た。あの日の暗い空の下で真っ黒な三つの影法師のようにも見えた孤立した三者は、青空に浮かぶ雲の下で何かを警告しているようにも見えた。

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