第一章:狐の唄①【雪降る白狐塚の谷】

 遙かの峰から 山尾根超えて 百夜の果てから 雪降る里へ 
 巣穴の中で 眠りの夢に  子狐こんこんこん――

 子狐が母狐から聞いた話で、決して行ってはならぬし、近寄ってもならぬという場所がある――その名を白狐塚の谷という。どこかの山奥深くにあるその谷への道は今となっては知る者は少ない。母狐は布団の中の子狐に静かに語った。外では雪が降っていた。
 そこに行ってはならぬ理由を子狐は母狐に尋ねたが返事が無く、耳に入っていなかったのかと思ってもう一度尋ねようとすると、母狐からは一言だけ返ってきた。
「知らなくてよい」と。

 白狐塚の谷の集落には、お雪という名の幼い娘がいた。色白い肌の娘であり、体つきは小柄でほっそりとしている。母と共に二人で小さな家で暮らしており、ある年に齢は数え年で十であった。これより語られるのはお雪の物語である。
 お雪は、普段見せる感情の起伏は実に少なかった。樹皮の糸で編まれた小袖の着物をいつも着て、家では木の板張の床に静かに座っている事が多かった。
 集落では「狐の尾」と呼ばれる髪の結い方がある。後ろ髪を下方に束ねて細く尾のように垂らすものがそう呼ばれていた。お雪は母から教わって以来気に入って、いつもその髪型でいた。細い紐で蝶結びにして束ね、腰の高さ辺りまで背の湾曲に沿うように、しっとりと髪を後ろに垂らした。母を真似て前髪の一部は結っていなかった。
 母の姿は娘の目には優美に映った。母は痩せていた。娘に劣らず細い胴回りで、着物を脱ぐと胸部に細いあばら骨が浮き出てよく見えた。しかしその白い素肌は手で触れると実に滑らかで、うなじから腰の反りに至る曲線は娘の目さえも惑わせた。
 父親なるものは家にいなかった。その理由を母は娘に一切語らなかった。
 母子が暮らしていた家は、集落の中でも粗末な部類に入る小さな家屋だった。
「大きな犬小屋みたいなものさ。まあ、こんなものでも住めるものよ」
 母はやや自嘲気味に自宅を娘に語った。だがお雪はそんな「犬小屋」が好きだった。
 母子は家屋の傍らの小さな畑で豆と長芋と、少しだけ他の根菜や粟を育てていた。

 白狐塚の谷には川も湖も無い。だが湧水が出る土地であり、谷のどこかに必ず残る雪を溶かす事もできたので水は容易に手に入った。土から出る水は僅かに塩気を含む。
 ある時にお雪が「湧水とはそういうものなのですか」と尋ねると「そういうわけじゃないよ。この谷は特別さ」と母は答えた。
 いびつな形の冷涼な谷は全体としてはおおよそ南西から北東に伸び、急峻な雪山の連なりに挟まれる。谷の幅は両端で狭まり、やがて両側の山が繋がり閉じてしまう。山岳中に孤立したその奇妙な谷間には小さな丘や窪地が数多くあり、それらの表面の大半は礫地にも近い荒野か、もしくは岩場であった。森は山麓の一部にだけ小さく広がっていた。
 集落は谷のやや北東寄りの場所に山から離れて一つだけ存在していた。
 谷では夏の暮れには早くも霜が降り、丈の短い草々は色を失い枯れて行く。秋には雪も降り、そして冬に至る。冬季の寒さは非常に厳しい。特に真冬になると、凍える谷に降る雪は毎日のように吹雪となり、積もる雪を放置すると家を埋め尽くす事もあった。毎年、寒さが近付いてくると母は娘に対し凍傷の恐ろしさを口酸っぱく言い聞かせた。
 さてそのような谷で生まれ育ったお雪は、実は時々一人で外に出て野を駆け巡るのが大好きだった。集落の西に広がる荒野の中で一人風に揺られ、後ろ髪をなびかせた。
 家の中ではまるで人形のような娘のその姿を、母親は好意的に見ていたようである。
「母上。外に出て、遊んできてもよいですか」
 お雪がお伺いを立てると、母は家中で何か作業しながら大抵快く了承する。そして彼女は小さな草鞋を足に履いて緒を結び、一人で出かけて行くのであった。       外に出る時は、何か一仕事する時もそうであったが着物の下に厚手の雪袴を穿くのが常だった。

 お雪は外で自由に遊んだが、母は幾つかの場所で遊ぶ事を娘に強く禁じた。
 一つは集落を治める頭領の一家の者達が住む地区で、彼らは塩の分配等の重要な仕事を仕切り、この集落にしては造り立派な家々に住む。お雪は用事を言い付けられて行」く事もあったが、遊ぶ場所では無いと念を押されていた。人の身分と住む区域は、厳格な形で上下の層に隔てられていた。お雪は自らが下の身分に属する事をよく知っていた。
 二つ目は荒野の中の一つの丘だった。そこには小さな木造の小屋がぽつんと一つある。横長で高さがなく、人が住む気配は無い。そのすぐ傍には一本だけ枯れ木が立ち、葉の茂りをお雪は一度も見た事が無い。枯れ木は細かい枝をたくさん伸ばし、小屋の屋根の上方を覆っていた。小屋の戸には網目がある事が、遠くからでもお雪には僅かに判別できた。
 その小屋がある丘は、頭領達の家の北西側に向けて集落を出た辺りに位置していた
 三つ目の場所は同じく一つの丘であったが、お雪の家から割と近い場所だった。集落を離れる方向に家を南西寄りに出て、幾つかの丘を越えると三本の背の高い木々が揃えたように直立して並ぶ。
「その並ぶ線を越えないようにね。あの三本の木に特別な意味は無いけれども、目立つから目印にしな」と母は娘に教えた。
――とにかく遠くには行かぬようにと母上は言っているのだろう。お雪はそう解釈した。
 荒野では木が孤立して生えている事は稀で、特に集落の周辺では見つけられると燃料にするためにすぐに伐られた。山麓まで行かないと高く育った木は中々ない。
 佇む三本の木々は細い枝を高い位置からちょこちょこ出し、葉は小さそうだった。幹は薄い褐色で白っぽくも見え、遠くから眺めるとお雪は何となく人の姿を思い浮かべた。
 お雪には兄弟も姉妹もいないが自分なりに空想し、木々を男子の三兄弟に例えて勝手に「ヒノキの三兄弟」と名付け心の中でそう呼んでいた。それらは檜の仲間らしかった。
 お雪はいつか、他愛もない事でちょっとした疑問を母に投げかけていた。
「あれは、松の木なのですか?」とお雪は母に尋ねたのであった。
「いや、あれは檜の仲間らしい。聞いた話では」と母は答えた。
「松の木とヒノキは、一体何が違うのですか」
「ははは!私もよく知らないよ……何がどう違うのだろうね」
 後に母でない者がお雪に教えてくれた事には、傍でよく見れば実は松と檜は葉の形状が明らかに違うとの事だった。山の麓から僅かに広がる森の木々は多くが松の仲間らしい。
 夕暮れ近くになると三本の木々は、沈む赤黒い日を背にして本当に人影であるようにもお雪には見えた。それらの姿は寂しげながら威圧的にも見え、少し怖く思える事もあった。
 集落の誰かが「檜の三兄弟」の地点を稀に行き来している事をお雪は知っていた。妙に思えたが、お雪は母の言い付けを守って自らはそこに近寄らぬようにしていた。

 しかしある晩秋の日に、図らずも彼女は母の言い付けを破ってしまった。
 その日は曇っていたが、お雪は外に行きたくなって母にお伺いを立て、了解を得た。
「遠くには行かないようにね。それと雪が結構残っているだろうから、足元に気をつけて」
 母に勧められ、お雪は雪草鞋を履いた。この雪草鞋を履くと足の裏に水が染みない。
 数日前に降った雪が荒野の丘の斜面には幾らか残っていた。それらは凍っていた。
 野からは緑色は既にほぼ失われていた。白色にも見えてきた野の草の丈は、お雪の小さな足の踝の高さ程もなかった。それらの破片が時々微風に舞い、僅かな土の香りをお雪は鼻に感じた。風は弱く辺りは静かで、音といえば彼女の足音と呼吸の音くらいだった
 お雪は荒野の丘を駆け回って遊んだ。
 ――朝は少し冷え込んでいたけれど、体が温まってきて涼しさが心地いい。この辺で、少し休憩しようかな。
そこは一つの窪地の中だった。お雪は大きく息を吸った。周囲は丘で囲まれていて、遠くの山の一部と空の雲を除くと景色は丘の背後に隠れて見えなかった。彼女は方角を確かめたくなったが太陽は広がる層雲に遮られ、さらには突如、濃い灰色の雲塊が溢れるように山々の背を一度に乗り越えてきた。空の雲の層は一気に低くなり山の中腹より上を覆い隠し、山の方角ごとの特徴を消した。
 首をもたげて滅多にない山の不思議な景色を見ているうちに、上空には乱雲が渦巻くように広がった。
 ――……早めに家に帰ろうかな。
 そう思って、彼女は一つの斜面を登った。
 半端な高さの斜面の頂上に着くと、その小丘は別の丘陵に囲まれている事が分かった。母と住む「犬小屋」は見えなかった。
 お雪は嫌な感じがして、別の斜面を登った。すると余計に位置は見失われた。
 時間が経過した。風が音を伴って吹き始めた。周囲の冷気は段々と強まり、汗が滲んだ手が次第に冷えてきた。嫌な痒みを伴う霜焼けの感覚が、僅かだが手の平に感じられ始めた。母の名を叫ぼうかとも思ったが、集落にはまず届かないと思いやめた。母からは声が小さいとよく言われる。
 お雪はとりあえず立ち止まり、「母上……」と小さく一言だけ呟いた。周りが急に一段と暗くなった気がして、そして何か冷たく濡れたものが頬に当たった。
 それは空の雲から降る雪だった。暗雲の下でお雪はのろのろと、当てもなく荒野を歩いた。  
 すると、ある時に見覚えのある物が遠くに現れた。
 ちょんちょんと並ぶ「檜の三兄弟」の姿……お雪は意外にも集落に近い位置にいたのだと思い、急速に気分が晴れてきた。

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