第六章:狐地蔵の坂①【雪降る白狐塚の谷】

 雪が降り続けた。お雪は大人しく家にいたが、母はまた朝から出かけていた。
 最近、母は雪が降る日に笠を被って朝早く出かけ、帰りは日が暮れる前の明るいうちに帰宅する事が増えた。ここ数日は幸いにも、留守番中に大きな問題は起きなかった。
――山の妖狐達は今どうしてるのだろう。
 お雪は小窓から外を見て思った。穴の中に入っているのだろうかと思った。山の上ではもっと強く、多くの雪が降っているに違いない。
 日中、お雪は家の中で静かに過ごしていたが元気があった。昼を幾らか過ぎた頃、降る雪の勢いが多少だが弱まった。お雪は今のうちに雪掻きをやっておこうかと思った。
 笠を被り、雪鍬を持って家の戸を開けると意外と外は明るかった。
 少し作業をして、彼女はふうと息をついた。
「おい。作業中悪いが、いいか?」
 突然の声にお雪が顔を向けると、集落の下層の男性の一人がいた。
 お雪は男性の顔に見覚えはあったが名は知らない……彼らもまたお雪の名を知っているか怪しかったからお互い様であったが。彼女は笠を少し上げ、男性を見た。男性は笠も被らずにそこにいたが、長時間降雪の中にいたわけではなく、ついさっき外に出たという様子だった。
「……何でしょうか」とお雪は静かに言った。
「ちょっと来て欲しい。倉庫のところに。来てくれるか」
――何だろう?
 どうせ良い事ではない……それは承知のうえで、お雪は了解して除雪具を家の壁に立て掛け、玄関戸を閉めて鍵をかけた。男性は懸命に家の中を覗こうとしていた。
 しばらく歩いてお雪は男性と共に食物庫の前まで来た。中は暗いようだった。
 そこには下層の男性達のほぼ全てかという人数が庫内にずらりと集まっていたので、お雪は一瞬たじろぎ、またあらぬ疑いをかけられる事を恐れた。暗い庫内にいるせいか、彼女は彼らの顔の区別が付かなかった。彼らは一様に、手入れしていない様子の茫々に延びた縮れ毛の髭の顔に、血走った二つの目を付けていた。肌は非常に暗い土色に見えた。
「中に入れ」と誰か一人が言った。
 お雪は庫内に入った。不思議と、彼らの体臭はあまり鼻に感じなかった。
 彼らは壁際に寄って道を作った。すると、お雪は芋や根菜を積んであった山が無い事に気付き「あれ」と声を出した。
 お雪を家まで迎えに来た男性も食物庫の中に入ってきた。
「見ての通りだ」と彼は言った。
「え。あの、それって……」
「もうここには、何も無い」
 お雪はここの食料が尽きたという現実が実感されず「あの、食べ物は」と彼女が言うと「もうここには何も無い」と同じ返事が来た。
 あまりに呆気ない結末のようでお雪は呆然とした。
――この事を母上は知っているのだろうか?妖狐達なら……冬眠を勧めてくるだろうか。
「脅すわけじゃねえけれども」と一人の男性がお雪に近付いて言った。
 お雪は相手の顔を周囲と少し見比べたが、努力しても相手の顔は他の男性と区別が付かなかった。
「お前の家はまだ少し余裕があるはずだろう?最近お前、肌艶いいみたいだし……」
 絞って唸るようにその男性は低い声で続けた。痩せこけた顔の皮は乾いてひびが入り、目だけに濁った潤いがあった。他の男性達の足が一斉に蠢き、お雪に接近してきた。
「頼むよ。俺の所はもう、余った芋も野菜も何も無い」
「何も無くて家で倒れた奴もいる……余分にあるなら分けてくれてもいいだろう?」
「今年は特に、親方も俺らに冷たい。揉め事を起こしたかせいか知らないが……」
 一人が言う言葉の最後の方には何か恨み節が籠っていて、気のせいかそれを機に庫内の充血した目が一斉にお雪に集中したように思えた。
「別に力ずくで奪おうなんて思ってない……。余っている分を、分けてくれ」
 男性達は口々に「分けてくれ」「芋をくれ」「俺にもくれ」とざわめき始めた。
 群衆内の誰がどの言葉を発したかも、最早お雪には判別しようがなかった。
「わ、分かりました。分かりました。分かりました……」
 お雪は相手を宥めるように両手の平を掲げて後退りしていた。
「家の中を探して、何か持ってきますので」
 お雪は彼らの間を静かに潜り抜け、焦る気持ちの早歩きで家へ向かった。
 男性達は庫内で待たずにぞろぞろと雪降る外へ出てきて、雪にまみれながら亡者のように大勢でゆっくり歩いて娘を追った。お雪が時々振り返ると、気のせいか途中で人数が増えたようにも見えた。
 家に入り、調理場を探すと芋は幾らかあった。だが明らかに人数分に満たない。彼女は一つを半分に割って配るという知恵を考えたが、その時に声がした。
「ちょっと!あんたら。人の家の前で集まって、一体何をやっているのさ?」
 母の声だった。
 お雪は芋を手に持ち慌てて外に出た。男達はたじろぎ一歩二歩と後退りしていた。笠を被った母はいつものように、物が詰まった大きな袋を肩に背負っていた。
「あ、あの。母上。倉庫に食べ物が、もう無くて。それで……」
 お雪が言うと母は機嫌悪そうに「は?」と言って娘を見て、それから男性達を見回した。
「人の留守中を狙って、娘にたかるとは何事だよ」と母が言うと、幾人もの男性が口々に「くっ……」と唸った。彼らは歯を食いしばり、各々の自らの褐色の手を拳にしていた。
「あの、母上」とお雪が言うと母は「少し黙っていな」と言い、芋を娘の手から取った。
 母は芋を一つずつ傍にいた男性らに押し付けるように手渡し、袋の中からも少し見慣れない形の大き目の芋を取り出し、残りの男性達にも一つずつ乱暴に配った。
「これでいいのかい」と母はぶっきらぼうに言った。
 男性達は押し黙り、明らかに不快感を抱いていた。お雪は実に気まずい思いだった。
 母の口は止まらなかった。
「昨日今日始まった話じゃないが、あんたらはとにかく私に対して直接ものを言えない野郎どもだね。いつも、いつも、毎度毎度。やる事が卑屈で、卑怯で……」
 その時に一人の男性が小声で、しかしはっきりと「女のくせに」と言ったのをお雪は確かに聞いた。
 それは母の耳にも入っていたようだった。
「――うちは毎年、あんたらよりも作物を多く納めてきた。知らないとは言わせないよ?」
 男達の中で手を拳にする者が増えた。お雪は思わず母の腕を蓑と着物越しに掴んだ。
「母上!母上。どうか、もうその辺に……」
 娘が言うと母は口を閉じ、鋭い目付きのまま黙った。
 男性達の一人は、足を動かし無言で立ち去った。他の者達も次々と真似るようにその場を去り、初め行列を作り、そしてやがて各々の方角へと降る雪の中で散った。
「お雪、中に入るよ」と言う母と共に、お雪は家の中に戻り玄関戸を閉じた。
 何とも後味の悪い空気の中、母は彼らを罵り続けていた。
 お雪は何ともいたたまれなくなり、膝を床に突き、両手も床に突き、深々と頭を下げた。前髪が床の上に垂れた。
「母上。どうかもう、お怒りをお静めくださいませ……」
 すると、母の声が止んだ。
 お雪が静かに顔を上げると、口を尖らせて娘を凝視している母がいた。
「――呆れた。一体どこで、そんな謝り方を覚えたっていうの?そもそも、別にお前に対して怒っているわけでもないのに……お前のお人好し加減には呆れるよ――ああ、もう分かったよ。私も、あまり言わないようにするよ……芋も、余った分はくれてやるよ」
 母は櫛を取り出して娘の乱れた前髪を整えた。
「あの、母上。食物庫にはもう芋も野菜も……」
「それは心配しなくていい。それよりも男どもにむしろ気を付けな」
 母は気休めで言っているわけではなく、何か考えを持っているようにお雪には思えた。
 だがそれが何なのかは分からず、母は新たに得ている野菜や芋の出所も語らなかった。
 その日の晩、お雪は母と共にしっかりと食事をとる事ができたが、今度雪彦に会ったら集落の現状を真剣に相談しようかと思った。母はまた明日も出かけてくるようだった。

 お雪は目を覚ました。
――暗い。
 横を見ると母がいない。
 だが反対の方を見ると、既に起きて身支度をしている母がいた。お雪はまだ布団の中にいたが、冷える中で身を起こした。母は出かける時のいつもの晴れ姿で、娘が起きた事に気付いて顔を向けた。
「おはよう、お雪。ちょっと早めに起きちゃった」
 そう言う母は笑顔だった。
 まだほとんど夜だった。本当に日を跨いで朝になったのかもお雪には不明だった。
 お雪は寝巻のまま、母を見送りに玄関口まで行った。外はまだ闇であるうえに、降る雪もかなり強いようだった。
「それじゃ、今日も行ってくるからね、お雪。暗くなる前に、早めに帰るから」
 陽気で随分と嬉しそうな物腰で、いつものように母は外に出て自ら戸を閉めた。
 お雪は外があまりに真っ暗だったので心配になり、少しだけ戸を開けて母の様子を見た。
 すると、ある事にお雪は気付いた。母は、頭領達の家とは全く逆方向の闇へ、集落から離れて荒野へと向かう方向へと消えて行ったのだった。
 お雪は母の行先を知りたくなった。
 誘惑に近い好奇心が芽生え、お雪は寝巻から着替えて支度を始めた。一本だけ細い芋を食べてから水を飲み、塩を少しだけ指でつまんで舐めて、笠と蓑を被った。
 こっそりと外に出ると、母の姿は既に無かったが僅かな足跡が残っていた。本来ならば外に出るのはためらわれる寒さと天候と、そして暗さだった。お雪は母がどこに向かっているのかを確認できたらすぐに戻ろうと思い、外から戸を施錠して雪の上の足跡を追った。
 荒野には意外にもまだ積雪が多くない様子だった。
 母の足跡が続く方向は、お雪がよく知る方角に思えた――「檜の三兄弟」の方角である。

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