そして母親の狐は実に美しく見えた。お雪は思わず母を連想した。
艶のある白髪の母親の妖狐は岩に腰掛け、腿と膝の上に布を敷き、その上に木の実か何かが山になっていた。小さい男の子と女の子がそれを手に取り、一生懸命食べていた。子供達は尾を振り、お雪の目に愛らしく映った。母親も実を時々口に入れた。
「綺麗な髪だろう?雌の妖狐は皆、髪をよく手入れするから」と雪彦は言った。
雪彦の視線は母子の狐達に優しく注がれていた。お雪は微笑ましく思ったが、……少しだけ雪彦と母子の関係が気になった。
――夫婦ではないと思う。それはお雪の推測というよりは願望だったが、ある時に彼らは似つつも違いがある事にお雪は気付いた。
それは微妙な毛の色の違いだった。雪彦の髪や毛も美しく立派だったが、妖狐の母子は、特に母親の方は光り輝くような純白の毛と髪を有していた。お雪は山で最初に出会った妖狐の黒髪と、黒丸という少年の黒髪との違いを何となく思い出した。
いつの間にか子供達は木の実の山を食べ終えて、母親の狐は丁寧に布を畳み着物の懐に入れた。そして母狐はお雪達を見ると立ち上がり、静かにお雪の前に歩み寄ってきたのだった。お雪は緊張した。母狐は若そうでもあり、長い年月を生きているようにも思えた。
眼前に立った白い母狐の目と、お雪の目が合った。この時、その瞳の色が雪彦のものとは全く異なる事にもお雪は気付いた。赤ではない。氷のように透き通る薄い青色だった。
「母狐はどこに?」と突然、母親の狐はお雪に尋ねた。
「――え?」
お雪は口を半開きにして、冬の象徴のような白い肌の相手の顔を見つめた。
「彼女の中に」と言ったのはお雪ではなく雪彦だった。
すると母親の狐は彼を見て、ほんの僅かだけ目を細めた。お雪は、これが妖狐同士の独特の挨拶か何かなのかと思った。
二人の子狐達もお雪の傍に寄ってきた。男の子も女の子も、興味を示したのかお雪の脚に着物越しに接する程近寄った。幼気で愛らしくお雪は思わず笑顔になったが、母狐の機嫌を損ねないか心配にもなった。だが母狐は特に子狐達を制しようともしなかった。
「子狐は母を慕い、いつまでも傍にいるものでございます。どうかそれはお忘れなく」
母狐の目はお雪に向いていた。同性である者をも引き込むような魅惑の目に見えた。
言葉の意味を取れないままお雪は「は、はい」と小さく返事をした。
「娘様のあなた、失礼ですがお名前は?」と母狐は、また唐突に別の質問をした。
「……私は、お雪と言います」
お雪は答えたが、眼前の相手の本物の雪のような白さと比較して明らかに名前負けしているようで、言うのが少々恥ずかしくうつむいてしまった。母がくれた名前はいつでも好きであったが。
子狐達は尾を振りながら好奇の目でお雪を下から見つめていた。
――可愛い。
お雪は笑顔を返した。
お雪が母狐に改めて目を向けると、表情は一見冷たかったが、好意的な反応が来た。
「素敵なお名前だと思います。大切になさってください」
「……はい。ありがとうございます」
「実は、私には名前は何もありませぬ」
母狐の発言にお雪はぽかんとし、返答に困ってしまった。
「私は白狐の中のただの一人の雌でございます」
「そういう慣習でね。お雪。白狐は母と子の区別しかつけない」
雪彦が横から補足してくれた。お雪には想像しにくかったが、それだけ親子の関係が深のだろうかとも思った。ふと母親の狐の目は、いつの間にかとても優しく見えた。
「あなたは大人になったら、きっと良い母親になると思います。私には分かります」
そう言って母狐は子狐達を連れてその場を去って行った。
――女性が女性に世辞を言うものなのかな。しかも小さな娘相手に。
お雪はそう思いながら、少々照れた。母狐の後ろ髪は非常に長く美しい「狐の尾」だった。
子狐達はお雪と雪彦の方を何回か振り返り、お雪は惜しむように彼らを見送った。
やがて母子は緩い弧の道を曲がり、大きくそびえる岩の陰にその姿を消した。
身を切るような冷たさの風が吹き、お雪の前髪を揺らした。だがその冷たさは少々火照る彼女の肌を優しく静めるようで、不思議と心地よく感じられた。
「ごめんね。ちょっと彼女、気難しい所があって……一応君の事は話してあったのだけど」
「別に私、何も気にしてないわ。それにしてもあのお母さん狐、とても綺麗……」
「元々、ああいう感じの女性が一族の中に多いのさ」
「頑張れば、私もいつかあんなに綺麗になれるのかな」
「君は、今のままで十分綺麗だよ。そのままでいい」
え、と思ってお雪は彼を見た。
雪彦はいつもの穏やかな表情だったが、少し視線を落として前方を向いていた。また、お世辞であろうか。彼はお雪に対し如何なる感情を本心に持っているのか。それはあの白い母狐と同じくらい謎を秘めているようにも思えた。
お雪は何か試してみたい誘惑に駆られたが、雪彦は立ち上がった。
「ちょっとだけ向こうに行ってくるから、ここで待っていてくれるかな?」
「……うん。分かったわ」
「すぐに戻ってくるよ。それと、黒丸が何か食べ物を持って、もうすぐ来ると思うから」
雪彦は歩いて行った。その先は、妖狐の親子が姿を消して行った方向と同じだった。
お雪は一人になって、山の冬の雪景色を色々眺めまわした。あの黒丸という少年が来ると言っていたが、まだ彼の姿は見えなかった。
その時にまた何かがお雪を誘い、立ち上がらせた。お雪は、親子と雪彦が姿を消した岩の先までそっと忍び寄って行った。やはり彼らの関係が気になったのだった。
道の左側の岩肌には、控えめに掘られた洞窟のような穴があった。小さな穴には子供くらいの背なら楽に入れそうだが、大人は入りにくそうに思えた。穴の前の道はそこまで広くはなく歩けばすぐに崖に至り、道は岩壁に沿って細く降る斜面となって続いていた。
何かが聞こえた。小声で聞き取れないが明確に会話らしきものであった。一つの声は、あの白色の母狐の透き通るような声――冷気と一体になるような、あの澄んだ声。話は続いていたようだが、突然のように「外道におちたあなたと一緒にしないで」と突き放つように言う母狐の声がはっきりとお雪の耳に入り、会話はそこで途切れた。
穴の中から、一匹の狐が出てきた。
それは人型ではなく、四足で歩く小型の獣だった。
お雪は少々ぎょっとした。彼女を驚かせたのは、全身を濃い朱色で染めたようなその異様な姿であり、その毛の色は鮮やかさよりも濃さが目立った。但し尾と耳には白い毛が、文様のように混じりそこは妙に美しくも感じられた。その狐はお雪を見ると、すぐに何も言わずに走り去って別の岩陰に隠れてしまった。狐の顔を観察する余裕はあまり無かった。
静寂の中でお雪は、雪彦はどこだろうと見回した。
――どこにもいない……それにしても、色々な色の妖狐が住んでいるのね。
彼女はそう思いつつ、引き返した。今さっきの狐は全身が赤だった
黒丸が盆に色々と載せてやって来た。美味しそうな様々な木の実や団子だった。それらには、雪彦が里帰りの際に持ってきた物も含まれているらしかった。
黒丸はお雪を見て、それから周囲を見渡した。
「あれ?雪彦は?」
「あの、さっきそっちに……」
「そっちに?あ、いたいた」
雪彦はいつの間にかお雪のすぐ後ろにいた。彼は笑顔でとんとんと、彼女の肩を叩いた。
三人は雪彦を間にして同じ岩に腰掛けた。
この黒狐の少年はこの山ではなく、山々を幾つも超えた遠くの別の里の出身だという。山の雪景とは色がくっきり際立つ黒色の毛を見てお雪は納得した。黒丸は黒狐衆について少し語った。
「黒狐は誰でも鍛冶は得意だけれど、性格はまるで不器用な狐ばかりさ……年齢関係なく、ね。皆、温泉が好きだね。俺も」
お雪は興味深く話を聞きながら、話し方や仕草から黒丸は雪彦よりは少し年下なのかと推測した。雪彦はゆったりと動く事も多かったが、黒い狐の少年は常に機敏だった。
出された物を食べ終えてお雪はお腹が結構膨れ、少々贅沢だったと思った。
黒丸は盆を持ち、来た道を戻って行った。お雪が彼に向けて礼を言うと、少年は振り向き丁寧にお辞儀をした。去り行く少年の黒い後ろ姿は、雪の中に立つ狐の影にも見えた。
雪山の中でお雪は集落の事など忘れかけていたが、雪彦は彼女を見て、もう少し休んだら谷に戻ろうと呼びかけた。お雪が家を出てから結構な時間が経っているはずだった。
お雪はもっと妖狐達と戯れていたかったが、雪彦の言う事を聞き入れた。
――今日の出来事は、大切な思い出にしたいな。彼女はそう思った。
来た道を戻るのは一苦労だった。多く食べた後で、体の動きもぎこちない。すると雪彦はお雪を抱きかかえた。突然だったので、今朝の時と同じくお雪は驚いて声をあげた。
「このまま麓まで送ってあげるから」と雪彦は笑った。
彼の動きは速かった。慣れた様子で風のように雪山の岩場を走り抜け。斜面を下った。
お雪が驚き興奮している間に、見覚えのある土の色が見えてきた。
雪彦は足を止めた。
「ここから、また目を閉じていてくれるかな」と彼は言った。
「うん」とお雪は答え、目を閉じた。
そこからの雪彦の足取りは、一歩一歩と、やや丁寧に歩くようであった。お雪は完全に安心し切って彼に身を委ね、往路の時と異なり目は自然に閉じられていた。
しばらくしたかと思うと「お雪、目を開けていいよ」という声がした。
何か少々早い気もしたがお雪が目を開けると、既に森の中ではなく、谷の荒野だった。しかも家の近くである事を彼女はすぐに察知した。
お雪は地に降ろされた。雪山は既に遠くに見えた。
あまりに時間の感覚が断片的で、彼は何か術でも使ったのかと思いお雪が辺りを見回していると、雪彦は静かに笑っていた。
「ここに来るまで、ぐっすりと眠っていたよ。疲れていたのかな」
「え。私、眠っていたの?……抱っこされながら?」
雪彦は可笑しそうに頷いた。山で僅かに疲れを見せた彼は今、子供のようだった。
「森を出たら起こそうと思ったけど、折角だからここまで運んであげようと思ってね」
お雪は少々恥ずかしくなって指で頬を掻き、谷の冷たい風は優しく彼女を撫でた。
二人はそこで別れ、お雪は彼にまた会える事を全く疑わなかった。
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