帰宅後の夕方頃からは急に黒い雲が増えて空を覆い風も強まり、やがて雪が降り出した。また天候が荒れそうな予感は妖狐の少年との別れと合わせ、お雪を二重に失望させた。
夕食中、野菜汁をふうふうと吹いて冷ましながら、お雪は少年との出会いを母に言うか迷った。軽くあしらわれるかもしれない。だが余計にためらわせたのは彼が語っていた、いらぬ集落の「取り決め」なる存在だった。
――母上も含めて集落の人達は皆知っているのかもしれない。
もしそうなら昼間の出来事を話すのは、きっとまずい……お雪はそう思った。
「大丈夫かい、お雪。ちょっと汁が熱かったかな」
「いえ、大丈夫です。母上」
お雪は湯気の立つ汁を少しすすり、中の煮られた豆を一つ箸でつまんで口に入れた。
塩気で体力が少し回復した気がして、お雪は自分なりに考えて集落の決め事についてだけ、母にそれとなく尋ねてみる事にした。少年の事には言及しない。そしてすぐにその判断は正しかったと彼女は確信した。
「その話は誰から聞いた?お雪」と母は言った。
母の口調は穏やかだったが、お雪は何となく威圧を感じて心中では強く身構えた。
「いえ……ちょっと小耳に挟みまして。でも私、初めて聞いたので」
「なる程ね」
外では風が唸っていた。冬にはよくある事だが中々の天候の急変ぶりだった。
「風が強いね。外は吹雪だね、これは。まだ冬も始まったばかりなのにこれだよ。今年は相当寒くなって雪も多いだろうよ……それにしても風がうるさいねえ」
強い風に打たれ軋む戸を忌々しそうに睨みながら、母は椀の汁をすすった。
「そういう取り決めは、あるのか無いのかと言えば確かにあるね」と母は語った。
狐に物を渡す事。狐と取引をする事。狐を家にかくまう事。狐の嫁婿に入る事等々……
それらの事は細かく巻物に記されていて、頭領の家に保管されているらしい。
しかも、かなり古くから存在する決め事だと母は言う。
「けれども」と母は続けた。
この集落では決めるだけ決めて、自分達でもろくに守っていない決め事がたくさんある。
彼らがいい加減に決めた事など本気に受け取っても損をするだけである。
「だから狐云々の事に関しては特に気に掛けなくて構わないよ」
母はそう言い終えると汁を飲み干し、椀を床に置いた。
お雪は話を聞いて、感情は複雑に揺れ動いていた。狐との交流を禁じる掟は確かに集落に存在する。だが母は「狐」とだけ言っていて、四足の獣を言っているのか、お雪が荒野で出会った存在を言っているのか。それは釈然とはしなかった。
お雪はそれを母に思い切って聞こうとも思ったが、踏み込む勇気は出ずに終わった。
母はお雪を見つめていた。
「お雪。また別の狐の話をしてあげようか」
「え。狐の話ですか」
「そう。また怖い話だけれど」
「ええっ……」とお雪は少し困った顔をした。母は可笑しそうにクククっと、少し笑った。
「冬の吹雪の夜に子狐が家を訪ねてきたら……絶対に戸を開けてはいけないんだよ」
お雪はかじっていた芋の断片を呑み込み、「え?」と思わず声を出した。その時に芋が喉につかえそうになり、彼女は慌てて喉を手で押さえ椀の汁を飲んだ。
同じような話を、昼間聞いた覚えがあった。吹雪の夜に戸を開けないで、と。
「大丈夫かい、お雪」
「は、はい。母上。あの、それで戸を開けてはいけないというのは―― 」
「戸を開けたら子狐は牙を剥いて、中の人間を襲って外に引きずり出し、食べてしまう」
「………」
「何年かに一度の猛吹雪で荒れる冬に、山を離れた妖狐の子供は故郷に帰ってくる。そして、山に残っていた妖狐と再会すると人間に会いに行こうかと話し合う……それで、ここからが大事で、家にやってきた子狐は『母はどこか』と必ず聞いてくるのさ。これには合言葉があって、返す言葉は『私の中に』――あるいは自分を指す言葉なら何でもいい」
お雪は目を見開いた。間違いなく雪彦が言っていた事と同じであった。そして彼女は注意深く聞いていたが、母は確かに普通の狐ではなく「妖」の方の狐に言及していた。
母は話を続けた。その次に子狐は食べ物を要求するので、何も言わずに何か食べ物を一切れ与えればよい。戸を少しだけ開けて差し出すと、相手は狐の手を伸ばして受け取る。
稀に相手から肉は要らぬかと聞かれるが、それは絶対に受け取ってはならない。
お雪は聞いていて、母が以前に語った怪談話との関連に気付いた。
母は冗談を言っている様子ではなかった。母はもう一つ付け加えた。
「最後に狐は『お前はどう思っているか』と聞いてくるから『悪かったと思う』『許してほしい』とか、詫びの言葉を言えば別の家に行く。違う事を言うと、大変な事になる」
風がまた強く吹き付け、その後でしばらく静寂が続いた。お雪は小さく芋をかじった。
「ごめんね、お雪。また怖がらせちまったかい?」
「……いえ、母上。でも、本当に妖狐が家に来るのですか?」
「これがね、本当に来るのさ。しかも何度も。私も小さい頃から懐かれちまってねぇ」
母は笑った。こういう時にお雪には母が本気なのか冗談なのか判別がつかないが、お雪とて昼間に本物の「妖狐」に確かに出会ったと固く信じていた。
しかしあの少年は、どう見てもお雪には凶悪な存在だとは思えなかったのだった。
「――母上。それで、さっき言ったような事も、実際に聞かれたのですか?」
お雪が尋ねると、意外にも母はまともに受け答えした。
「小さい頃は私の母親が答えたけれど、私も実際に聞かれて答えたよ」と母は言った。
声は女のように高いが確かに男の声であり、深夜過ぎの遅い時間に来たという。
少女のようでもある男の子――まさか「彼」が家に来るのだろうか。
「お雪。寒さの厳しい冬は本当に集落の家が何軒も襲われる事があるから。私が小さい子供の頃は周りの大人は皆本気で恐れていた。外に出たら確実に殺されてしまうって、ね」
「え?本当ですか。母上……。あの、それは狐が」
「ま、狐じゃなくて人間がやったとしても区別はつけられない場合もあるけどね……でも狐がやった場合には大体それと分かる大きな特徴があるのさ。見ると大体分かる」
どんな特徴なのか、お雪は尋ねようかと思ったが何だか怖くなり結局控えた。
「お前を怖がらせたくはないけど、私はこの冬、狐は来ると思う。集落の他の連中もそう思っているはずさ。強がっても内心はびびっているに違いない……月衛門の奴らもね」
お雪は恐れながらも母の話を注意して聞いていた。
「集落の人達も皆、それを知っているのですね」
「私くらいの年以上ならね。でもさっき教えた合言葉は秘密の言い伝えだよ ――ところで、家に来る妖狐からは、最後の問答でも、ごく稀に別の事を聞かれる事もあってね」
「え。それは何ですか」
「『君を嫁に貰いたいけどいいか』って聞いてくる時があるの。『はい』って言うとそのまま帰って行って、後になっていい男に化けて本当に迎えに来るから」
母はまた陽気に笑った。これはきっと母お得意の冗談に違いないとお雪は思い、反応に困って赤面し、化かされた心持にて黙って芋の残りを食べ切った。
その時に母の目がお雪に向いていた。母と娘の目と目がぴたりと合った。
「お雪。明日の朝、私出かけてくるから。お留守番お願いしたいのだけど。いいかい?」
「え。あっ……はい。承知しました、母上。朝早くからですか?」
「結構早く出るつもり。夕方頃には戻ると思うよ。今日は、早めに寝よう」
食事を終えて少しすると布団が敷かれて、母は灯りを消すと早々と寝てしまった。風の音が外で轟くように響く中、お雪は不安な思いで眠りに就いた。その晩は何も無かった。
黎明の弱い光でお雪が目を覚ますと、強風は止んだが雪は降り続けているようだった。
母は既に起きて身支度をしていたが、いつもと異なる絢爛な着物姿だったので娘は目を見張った――見頃は真紅に染められた布地に白雪が乱れ吹雪くような模様で、襟は紅一色、幅の広い腰帯は真っ白だった。赤色の長い紐で後ろ髪を束ね、母は壁に立てかけた大鏡の前で何度も髪の手直しをしていた。
――余程の特別な用事なのかな。お雪は思った。
母は大きな蓑を肩から着物全体を覆うように掛け、頭にも大きめの編み笠を被って外に出て戸を閉めた。外は明るさが意外とあったが、降る雪は大分強そうだった。
その日、天候は一向に回復する様子は無かったが、風が無く意外に静かな日であった。
日が昇った頃、一人になったお雪は朝食に芋をかじり、それから少し掃除をした後は本を読んでいた。家の壁際にはお雪の背丈よりも高さのある書棚があり、本が並んでいる。
紙を束ねて糸で綴じたそれらの書物は、母が誰かから譲り受けたものらしかった。
幾らかの時間の後、お雪は一冊の古典の物語を読み終えて棚に戻した。
その時、本棚の上に何か黒ずんだものが置いてある事に彼女は気付いた。何だろうと思い、一生懸命に背伸びして見ると一冊の本だった。それはどう頑張っても手が届かぬ位置にあったがお雪は知恵を使い、漬物石を持ってきて台代わりにし、その本を手に取った。
その古びた本は「妖狐伝」と題されており、綴じ糸は細く綺麗な朱色だった。お雪は狐の話だと思って興味を持ち、床に座って膝の上に本を置き、古びた紙をめくった。
文体はやや古めかしく「東国に七狐あり」と最初に書かれていた。
狐には金狐と銀狐、黒狐と白狐、朱の狐と蒼の狐、時の狐がいるという。
本には金色と銀色の狐の話が最初にあった。
――金狐の一族は雲より高い霊峰に住む天空の狐。対して銀狐は岩山の中深くに住む大地の狐。これらの狐は親子の関係。どんな恋人達よりもその絆は固くそして深い。そんな幻想的な説明が多くあった。
次に黒狐の物語が短く記されていた。
――炎の黒狐と雪の白狐は夫婦の関係。黒狐は勇敢で闘志は炎の如く熱い。白狐と子狐を愛し、怒らせると吹雪の中だろうと激しく燃え盛る火炎を噴く。
続いて白い狐の一族の話が始まるようだった。お雪は、まさにこの谷と関係が深い狐なのかと思った。あの日の妖狐の少年も美しい白い毛をしていた。お雪は期待を寄せ、心を躍らせて紙をめくった。すると、彼女は「あっ」と思わず声をあげた。
唐突に一面、ありったけの真っ黒な墨で塗り潰された紙面が出てきたからだ。
それ以降、同じように全体が潰された紙面が続いた。紙の表も裏も黒一色で、稀に塗り潰し損ねたのか文字の断片も見えたが、解読できる代物ではなかった。
お雪は思考が停止し、ぱらぱらと紙を一気にめくっていった。
すると唐突に「時の狐」の話が最後の辺りで出てきた。
――時の狐は恒久の狐。人よりも百の百倍は生きる。七狐の他の一族は遡ると元々時の母狐から生まれた。時の狐は年を老いるとほとんど眠らずに昼も夜も起き続けるが、子狐の間は母のもとでよく眠る……
お雪がさらに紙をめくると他の紙よりも一層黄ばんだ一枚の空白の紙面が最後にあり、その裏には非常に濃い色の朱書きで何かが記されていた。
母は何処に 我が中に
食べ物を 与へよ 但し肉は決して与へぬ事
何を思ふか 悪しき事をした故に詫びる ……
少し離れた位置にも同じく朱書きの文言があった。「朱の妖狐」が肉を差し出してきたら絶対に拒否する事。さもなければ斬られ……その先は字が滲んで潰れ、読めなかった。
本はそこで終わっていた。
お雪は何か見てはならぬものを見てしまった気がして、本を閉じて急いで元の位置に戻し、漬物石も元の場所に手早く片付けた。
塗り潰された箇所は誤って墨をぶちまけてしまったという様子ではなく、誰かが意図的に内容を潰したように見えた。少し冷静に内容を思い返してみると、狐の種類が七つあると言うがまともな説明があったのは四つだけだった。
お雪は急速に心細くなり、小窓を見ると外の降る雪は激しさを増していた。これはかなり積もるかもしれないと彼女は思った。
昨夜と打って変わって全くの無風で、ただしんしんと牡丹雪が降り続け、その静寂が却ってお雪の孤独と不安を増大させた。快晴であった昨日の昼間が何だか夢だったように思えてきて、彼女はただ静かに床に座り込んだ。
そして、それからしばらく経った時の事だった。
突然誰かが入口の戸を激しく叩いた。お雪は床に座ったそのままの姿勢で飛び跳ねそうになった。戸を無理やり開けようとするような音と揺れが続いた。戸は頑丈に施錠されていて、こんな仕掛けは他の集落の家の戸には無いと母は過去に自慢していた。
再度、戸が幾度も強く叩かれた。恐らく母ではない。では誰か。まだ昼間である。
お雪は立ち上がり、入口に近付いた。
「どなたでございますか」とお雪は恐れるように言った。
入口の外の相手は何も答えず、ただ戸をより一層叩き続けた。無視しようか―― お雪は思ったが、結局それも怖くて、お雪は開錠して入り口の戸を静かに開けた。
降る雪の中、立っていたのは集落の大人の女性達だった。ぞろぞろと、何だか数が多く、お雪は一度に人数を把握できなかった。彼女達は何か恨みでもあるのか、上からお雪を睨み下ろしていた。狭い集落の中にてお雪はそれらの一人一人の顔の区別が一応付き、うち何人かは子持ちのはずだった。女性達は雪まみれで、いつもと比しても血色悪い肌の色で、顔はごつごつと角張った骨の形が浮き出て、皮は突っ張り貼り付いているようにも見えた。
「母は今留守ですが……」とお雪はおずおずと言葉を発した。
「知っているよ。朝早く家を出て行くのを見たから」と女性達の先頭の者が言った。
そして剥くように歯を見せ、噛みつくように凄みながらお雪に迫った。
「食べ物をお出し!」
極めて唐突に言葉は発せられた。あまりの事にお雪は面食らった。
その女性の口は歯並びが極度に悪く上の前歯は一本を欠き、歯茎は灰色を帯びた薄紫色に見えた。その色はいつか見た死者の肉の変色を想起させ、余計にお雪の動揺を誘った。
「あの、それはどういう……」
「いいから早く、持っている食べ物を全部お出し!」
女性はいきなり平手でお雪の頬を打った。
お雪は「あ!」と叫び、手で頬を押さえて一歩下がった。
――まだ目の周りのあざも癒えてないのに。
お雪は肌にまた傷が増えるのを恐れ、怯えるように頬をさすった。
「ぶたれたくなかったら、とっとと食べ物をお出し。持っているのは知っているから」
真上に釣り上げられた口角と鼻筋に寄った大量の細かい皺は怒りの表現であろうと思われたが、人がまともに作る表情に見えなかった。
お雪は怖くなり、調理場に置いてあった籠の中を漁った。持っているのは知っていると言われたって……箱には多少余裕のある本数の芋と、きのこや根菜類が少しばかり入っていた。
――でも、全部あげたら今晩私と母上が食べるものが無くなってしまう。
集落では各々が収穫した作物を決められた分だけ食物庫に納め、必用な分が数日に一度家々に再分配されていた。余剰の作物は畑の持ち主が持っていてよい決まりだった。お雪は女性達の家には配られていないのかと疑問に思ったが、深く考えている余裕は無かった。
僅かな数を残し、お雪は芋を慎重に人数分数えて取り出し、女性達に差し出した。
女性達はやや不満気にそれを見ながら、各々が一本ずつもぎ取った。特に、群の先頭の平手打ちをした女性は芋を奪っても尚いきり立ち、「ふん」と鼻を鳴らした。
「あんたの母親はずる賢い女だ。食料が足りてない時に、親方達か男どもかに取り入って自分だけ潤って……今日も、こんな時期に誰か男の所に出かけて商売して」
女はなじるようにそのように吐き、臭みの強い唾液の飛沫も一緒に飛ばしてきた。
寒さを感じないのか疑問な程に雪まみれの彼女達の顔は強張り引きつり、蒼白な皮膚は所々ひび割れ避けており、鼻の穴は霜がこびり付いたように白色で、唇は青紫色や灰色だった。無論、化粧の色などではあるはずもなく、普通なら心配する所だがこの時ばかりは相手方の一人一人が人の顔を失ったようで、お雪は怖かった。彼女達の結い上げた髪も最早頭髪ではなく凍結した何かの塊に見え、幾多もの白い筋は霜や雪なのか白髪なのか判別できなかった。
お雪は自らへの暴言も母への罵倒も耐え忍び、押し黙った。反論するどころの心持ではなく、とにかく帰って欲しい一心だった。人の表情を欠いた女性達は頑固で中々帰らなかったが、やがてお雪に対していつ見ても暗い感じの不快な娘だと罵り、それから母親には絶対に告げ口をするなとだけ強く言い残し、まとめて引き上げて行った。
笠や蓑の一つも持っていないのか、雪まみれで帰って行く姿は極めて不気味だった。
お雪は玄関戸を閉め、鍵をしっかりとかけ部屋の隅まで力なく歩いた。手鏡を持って顔を近付けると、平手打ちされた部分は無傷のようだったので、お雪は自らの頬を手でさすりながらほっとした。左目の周囲は元の肌色に戻りつつあったが、まだ色は残る。
お雪は妖狐の少年の事を思い出した――彼は本当に優しかった。しかしそう思うとお雪は却って切なくなってしまい、胸が苦しめられた。
疲れたせいか彼女は少し空腹になった。
食事は朝夕二食だったが、昼に芋の一本は食べて良いと母からは言われていた。
――でも、芋を差し出して残りが少なくなったのだから、そのただの一本とて無駄にできない……それに、また誰かが来るかも。
お雪は不安でたまらず、緊張が続く中で水を少し飲んで塩をほんの少しだけつまんで舐めた。
娘が一人でいる事を知って脅しに来たあの者達は強盗で、卑劣と呼ぶに値すると思えたが「食料が足りていない」という言葉だけにはお雪は注意を払っていた。いつかの誰かが言っていた道端の言葉がお雪の頭によぎった。この冬を越せないかも。何か嫌な予感がした。
灰色の強盗達は、飢えて病魔か何かに肉体が冒されていたのかもとお雪は思った。
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