第二章:死者の唄③【雪降る白狐塚の谷】

 井戸が近付いてきた。男性達は何も言わず、不思議と婆様も何も言わず、辺りは静寂であった。水は汲んでもよいのかと判断して井戸の縁に桶を置こうとした時に、婆様の横顔がちらと見えたのだが、どういうわけか泣いているようだった。
 理由は全く掴めなかったがお雪は何だか急に相手が気の毒になり、何か声を掛けようと近寄り相手の顔を覗き込んだが、一気に青ざめて後ずさりした。
男性の一人の脚にお雪はぶつかった。
「ごめんなさい」と言って離れると、今度は足を滑らせて膝を地についた。その時にお雪と婆様は、顔と顔が鏡を合わせたように向き合った。
 しかし目は合わなかったのである――狐婆様は、大きく抉られたように眼球をごっそりと失っていた。眼窩の中は暗かったが中は妙に乾いて見えた。あるいは 凍っていたのかもしれぬ。死者は物のように静かに固まっていた。粉をまぶしたように降った雪が髪にも着物にも大量に散っていた。所々ほつれた着物は正面全体が赤黒く激しく汚れていた。涙の軌跡に見えたものは、抉られた場所から大量に流れ出たであろう血液の軌跡であった。
 死者の口はかすかに開き、並びは意外に良い褐色の歯が何本か見えた。最早何も見ず何も語らず、ただ雪上に座す姿は孤独で、異様で、そして物悲しかった。  その姿は、放置されて崩れかけている廃墟をお雪に想起させた。
 よく見ると同じく抉られたような傷が他にもあり、それは後頭部の髪だと思っていた部分だった。凍って針の山のようになった蒼紫色の傷口が少々生々しくて、お雪は「う……」と小さく声をあげ、腰を抜かしたまま、あざを隠すのも忘れて片手で口を塞いた。
 お雪がぶつかった男性が「大丈夫か。しっかりしろ」と面倒そうに言い手を貸した。その手は指が二本欠けて親指寄りの三本しか無かった。凍傷で落としたのだとお雪は思った。
「申し訳ありません」と言ってお雪はその手を握り、よろけながら立ち上がった。
 男達は内輪でぼそぼそと話を始めた。曰く、朝方に死者の自宅を見ると玄関戸が開け放しとなっていた以外には、特別に荒らされた様子も血の跡も無く、屋根が壊れかけで座間が汚く多少散らかっていたのはいつも通りの事であったと。
「お前、何か知らないか?」
 男性の一人が言った。体の正面に組まれた腕の手の指は五本ずつあった。
 お雪は初め、言葉が自分に向けられている事に気付かなかった。
「お前、何か知っているはずじゃないか」と同じ人が言った。
 やがてお雪は、下層の男達の目は猜疑でみなぎっている事に気付き、自分が死者の杖で殴りつけられた事はきっと数日間のうちに多くの者に知れ渡ったのだろうと思った。
 殴られた後に死者に会っていないかと、白毛混じりの髭の別の男性はお雪に尋ねた。
 しかし仕返しする度胸などなかったし、当然ながら目を抉ってやろうとも思っておらず、そもそもお雪は自分が被害者だと思っていたから次第に非常に悔しい思いがじわじわと湧き出してきたが、濡れ衣を被せられている事自体に激しく動揺し、足がふらつき目の前が白くなりかけた。目の前の周囲の色が褪せていく感覚の中、お雪は弁明するように口を塞いでいた手を胸の前で泳がせ「あの、いや、私は」と呻くように言った。
「でも証拠があるわけでもないし。娘が関わった証拠は何も無い」
 誰かがふと明瞭に言い、誰かは分からぬが彼女にとっては助け舟で、安心感からか意識は急速に回復した。男達の何人かは怪訝な顔で周囲を見渡していたが、 やがて皆困った顔付きでまた死者に目を転じた。死者は凍結した故か、ほとんど臭いを放っていなかった。
……とにかく水を汲んでもよいだろうか。
 お雪が思ったその時、雪を乱暴に踏み荒らす音が聞こえてきた。一体何事かと思い目を投じると、腰に刀を差した男達 ――集落の頭領本人と血族の者達がいた。両肩の肩衣から筒状の小袖を出すのが彼らの装束の特徴で、布の地質は目が細かく上質そうだった。
「よお、お前ら」と最も大柄で荒い髭面の男が言った。これが頭領の月衛門であった。
 集落の頭領は代々その名称を名乗る。そう母がいつか言っていた。口周りや顎の真っ黒い髭の一本一本はまるで針のようで、刈り上げた短髪は実に荒々しく見え、他の者達とは違って太い縄のような腰帯を締めていた。背丈はお雪の倍はあるかもしれなくて、腰に差している反りの無い直刀も他の者達の刀と比して相当な長さがあった。
 月衛門は下層の身分の地区には滅多に顔を出さないが、何か事があるとやってくる。
先日お使いで会ったあの腕吉という男も、今この場にいた。お雪は腕吉と目が合ったが慌てて目をそらした。腕吉は首を回しながら眠そうに大きなあくびをした。
 下層の男性達は頭領を恐れてか、皆数歩退いた。
 月衛門の首回りと肩の筋の隆起や腕の太さは装束越しにもよく分かり、巨大な足が地の雪の上を一歩二歩と移動するとその大きさ通りの穴のような足跡が残った。
 大男は正座する死者の横に立ち「ちっ」と舌打ちすると相手を猛然と蹴飛ばし上げた。
 お雪は驚いて引き下がって、再び誰かの脚にぶつかりそうになった。
 死者は家屋の屋根に届く高さにまで遙か舞い上がり、離れた地の雪面に落下し、衝撃で雪を宙に周囲に巻き上げた。そこに背の低い禿げ頭の男が無言で近寄った。男は手に持つ太い縄で死者を素早く縛り上げ、自らの家の方へと物のように引きずって行った。
 死者は視界の遠くへと消えて行き、引きずられた跡が道のように雪面に残った。
 死者の葬儀は頭領達の仕事であると母はいつか言っていた。お雪はこれから弔いを受けるのであろう死者の行方をただ見つめる事しかできなかった。
「一応説明をもらおうか。お前ら」と頭領は威圧的に言った。
 そして、誰が老婆の目を抉ったのかはもう分かっているのかと、下層の男性達を見回しながら問いただした。
 誰も返事をしなかった。
 一様に下を向いていた者達の何人かが、ちらとお雪の方を見た。
 その時に月衛門の大きな舌打ちが再び聞こえ、お雪は凍るような思いだった。だが月衛門はお雪の事など全く眼中に無い様子だったので、彼女は心底ほっとして視線を下ろした。
 しかし次の瞬間には怒号が耳に入り、お雪はまた腰を抜かしそうになった。
「いいか、お前ら」と強圧的な前置きがなされたうえで、この冬場に揉め事を起こさない事、もし起こすなら自分達で解決する事、この時期につまらない揉め事を起こす者は集落から放り出すという事が、吐き捨てられるように伝えられた。
 そして月衛門は他の者達を連れて去って行った。お雪がちらと顔を上げると、腕吉は退屈そうに頭の後ろに手を組み、だらだらと頭領の跡を追っていた。
 彼らが去ると、静寂の中で井戸の周りに残ったのはお雪と下層の人々だけであった。
 一人は頭を掻き、縮れた顎髭をいじり「ちぇっ」と口にした。気持がしぼんでしまったのか、彼らはそれから何も言わずお雪を放置して離散した。
 その場で一人だけになったお雪は深い息をつき、緊張が解けて力も急に抜け、その場にしゃがみ込んだ。そしてまだ水を汲んでいない事を思い出し、頑張って立ち上がった。釣瓶を落とした時に失敗し、水面に浮いたのが手応えで分かり、やり直した。縄を引く力が抜けて何度も手が滑った。もしや死者の血が水に混ざっているかと思うと気持が悪かった。  
 彼女には一体誰が死者の目を抉ったのか、その考えを巡らせる余裕は無かった。
 やっとの思いでお雪が水を持ち帰り玄関戸の前に立つと、なぜか心が急に和んだ。
「子狐こんこん山の中、山の中」
 誰かが楽しげに、そして優しい声で唄っていた。母の声で間違いなかった。

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