第九章:赤狐門⑧【雪降る白狐塚の谷】

 不思議と穴の中には風が入らず、お雪は火の前で静かに暖まった。
 蒼次朗は、思いがけずお雪の母の事を色々と語った それでお雪は妖狐達が必要な物や知識を与えて母を助けていた事を知った。
――母上は、やっぱり狐達と関わりを持っていたんだ。
 お雪は思った。
 朱の妖狐が不在の年には蒼次朗が家に物を届ける役目を引き受け、母もそれを知っていたようだ。但し、喧嘩早い彼女を説得して大人しくさせる事に朱の妖狐は随分と苦心していた様子だったと蒼次朗は言う。お雪は何となく様子を想像できた。
 話を聞いていて、お雪はいつか見た狐の本が気になった。本は今、手元に無かった。
 蒼次朗に言うと「それをやったのは俺だ」と彼はあっさり答えた。
 だが塗り潰した内容も塗り潰した理由も、彼は一切言わなかった。
 お雪は想像した――あの本には白狐の母子達の楽しい思い出の数々が書かれていたのかもしれない。だとすればそれは彼にとって耐え難いものだっただろう。
 お雪はまだ見ていない金色の狐などについても尋ねてみた。蒼次朗は、あれらの狐は人が住める場所に住んでいないと答えた。故に、あれらの狐は人との交わりもほぼ無い。だだが、それこそが本来は最も良い関係なのかもしれぬと、彼は火を見ながら答えた。
 お雪も火を見つめた。
 蒼次朗という名を字で思い浮かべた時に、お雪は気になる事があったが尋ねなかった。
――それは、彼の母狐が付けた名前なのだろうか。蒼次郎には元々、何か別の名前があったのかもしれない。彼も最初は白狐だったはずだから。例の本にはその記述もあったのかも。あるいは……。
 お雪は首に掛けたままの首飾りにふと視線を下ろした。蒼次朗は、そこには小さく文言が刻まれていると言った。それを知らなかったお雪は首飾りの玉を見た。目を凝らすと、非常に小さく確かに文字が見えた。
 子狐こんこん山の中――
 母のものと想像された同形の瑪瑙の玉を見ても同じだった。子守唄の詞が見えた。
 その時に外から音が聞こえ、見ると外から何かが入ってきた――雪彦だった。
 彼は四足の狐の姿で、大きな風呂敷を背負って穴の中に入ってきた。
 彼の目付きはいかにも機嫌が悪そうで、それを見てお雪は裸のまま怯えた。
「蒼次朗!お雪をあちこち連れ回して、勝手な真似をして」
「勝手だと?そうでもないだろう……お前も姉上も望んでいた事ではないのか?」
「……赤霙をお雪に渡したのもお前か。一体、何て事をしてくれる」
 横たわる刀に雪彦の赤い瞳が向けられ、お雪は益々怯えた。
「お前にこの娘の何が分かっている?俺の方が、この娘の事を余程よく知っている」
 蒼次朗は首を直立させ、悪びれる様子はなく、雪彦の口からは牙が見えた。
「お願い、喧嘩しないで」とお雪は言った。
 雪彦は黙って風呂敷を置き、お雪の方を見た。
「お雪、着物は?―― ああ、乾かしているのか」
 お雪は見つめられて、多少慌てた。着物はまだ濡れていて、第一非常に汚れていた。
 ふと雪彦が風呂敷の結び目を解いて広げると、そこにはまだ使っていないような白い着物があった。それは非常に美しくお雪の目に映った。雪彦はそれをお雪に渡した。他には団子、餅、木の実、芋 ―― 沢山の食べ物が風呂敷には詰められていた。お雪は雪彦が食べ物を集めてくれていたのを忘れていた。 
 彼女は震え出した。そして「――ごめんなさい、雪彦」と詫びた。
 右目から涙がこぼれた。雪彦はお雪に近寄り、彼女の頬を優しく舐めた。
――あなたは……なぜ、こんな汚れ切った私にも優しいの。
 お雪は心の中で問うた。
 雪彦はお雪の母を死なせた原因が自分にあると改めて詫びた。お雪は、むしろ自分に原因があったと詫び、白狐の母子や黒狐の少年の事も改めて詫びた。傷の舐め合いだった。
 蒼次朗は黙って二人を見ていた。
 お雪はふと、雪彦にある事をどうしても尋ねたくなった。もっと以前に聞いておくべきだったかもしれない事を。
「雪彦は、母上の事を昔から知っていたの?」と彼女はぼかして尋ねた。
 雪彦は少し間を置いた。四足の狐の姿の彼の表情は穏やかに見えた。
「吹雪が子供の頃から知っていたよ。谷に来る度に、何度も会ってきた」
 それ以上は、彼は語らなかった。だが、それで十分かもしれなかった。
 お雪は、彼こそがきっと、自分の不在の父上ではないかと思った――であればこれまでの彼からの好意と優しさの全てに納得が行った。
 お雪は、それをちっとも残念に思わなかった。むしろ親子の関係であるなら、どんな恋人よりも関係が近い。彼女は嬉しく思った。ずっと傍にいて欲しい。離れたくない――そう思った。
 彼らと食事を終えた後、お雪は新しい着物を着た。そして横になり、四足の狐の姿のままの雪彦を抱きかかえる形で眠りに就いた。眠りに落ちる直前、火の番をしている蒼次朗の座す姿が見えた。彼が今何を考えているのかは、顔の表情から読み取る事はできなかった。

■前:第九章⑦へ

■続き:第九章⑨へ

目次へ