壁際には頭蓋骨や様々の骨がずらりと並べて飾られていた。
お雪は赤霙を構えて鬼を睨んだ。
鬼もお雪を睨んだ。
「信じられねえ事だが……小娘――狐にでも憑かれたかよ?」
鬼は襲ってきた。
鬼は、お雪よりもむしろ蒼い狐を狙った。剣は速かったが蒼次朗は素早く横に跳んだ。
鬼は、今度はお雪を狙った。お雪も跳んでかわしたが、剣の才ではなく野で鍛えた脚力ゆえだと思った。鬼は剣を振らずに、間合いを少しずつ詰めてきた。
その時に突然、障子を破り何かが飛んできた。それは鬼の左脚の下腿にぶつかった。
お雪は最初それが何か分からなかった。それは赤い毬だった。
赤い毬の鋭い刀の如き尾がしなった。血が舞い足首が切断され、鬼は体制を崩した。
「お雪、奴の手を」と蒼次朗の声がした。
お雪は踏み込んだ。鬼の手首が落とされた。
「次は脚を」と言う声は母の声に聞こえた。
鬼の両脚の付け根に、赤霙は奥まで喰い込んだ。
「次は両の腕を」と言う声は既に笑っており、両の腕を落とせば半身の着衣が破れてはだけた。すると、見よ!そこにはあらゆる体の部位の、おびただしい数の刺青が彫られていた――
蒼次朗は笑った。そしてさっと鬼の肩に乗り、口を大きく開けて鬼の頭頂と顎を挟んだ。
「久しぶりよのぉ、月衛門よ……覚えているか。あの時に仕留め損ねた子狐を」
蒼次朗は舌を出して鬼の鼻の頭をぺんぺんと叩いた。
お雪はそれを見て、鬼と蒼次朗は遊んでいるのだと思った。もっとも、鬼はこの狐の事を知っていても、子狐の事は知らなかったであろう。鬼はその時に生きてはいなかったから。しかし狐はその時を生きた同じ名の男を知っている。そしてその男の忌まわしい魂を今この場にいる鬼が引き継いでいる事を知っている。この時にお雪には蒼次朗の言葉の意味がはっきり分かっていたが、鬼には分からなかったのかもしれぬ。
その可能性が高いまま、鬼の頭は潰されようとしていた。
――狐は肉を潰そうとしているのではない。鬼の霊と魂を潰そうとしているのだ。
妖狐の口は少しずつ閉じられ、鬼の頭が明らかに変形していた。鬼の唸り声が聞こえ始めた。
蒼次朗は何かを言った。彼はこの谷が元々は妖魔の谷と呼ばれており、入ってはならぬと言われていた場所であった事を示唆した。
お雪は朱の妖狐の刀を手に持ったまま、黙って彼らを見ていた。
――鬼が唸っている。頭が変形している。今、潰れた。中身が飛び出し悪趣味な骨董品に雨の如く降り注いた。妖狐は赤い口を開けて声高く歓喜の笑い声をあげている。でも鬼からは何も食していない。
周囲に熱気を感じ始めながら茫然と観察しているうちに、彼女は視線を感じた。
鬼の陰にいた四足の狐――朱の妖狐は娘を見ていた。お雪は彼と目が合った。
「お雪。その刀があった小屋……近付いてはいけないと言っただろう」
朱の妖狐は言った。雪彦の声で。
お雪は黙っていた。彼の声がやたらと痛く胸に染みた。褒めてもらえない。
「……それはもういい。行こう」と言う彼は、既に人型の少年の姿になっていた。
雪彦はお雪に近寄り彼女を抱きかかえ、窓に向かって走り一気に飛び降りた。
それに蒼次朗も続いた。
そしてお雪は地の雪面に降ろされたが、雪彦の目を直視できなかった。後悔の念が彼女にあったかというと、少なくともこの時はどうだったか分からない――だが彼に合わせる顔が無い思いだったのは大体間違いが無かった。
その時に叫ぶ声がした。
お雪が振り向くと、男達が走って逃げ去っていた。下の身分の者達だと分かった。
「おお!屑肉も返してもらわねば――行こう、お雪。これが最後だ。これが」と蒼次朗は言った。
お雪は彼の言った事が理解できた。
――こびりついた肉片や皮。
赤霙を持ち一歩踏み出した時に「お雪」と呼ぶ雪彦の声がして、彼女は一瞬踏み止まった。だが彼女は駆け続けた。背後で雪彦が一体どういう表情をしているか、お雪には想像ができなかった。
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