第九章:赤狐門⑤【雪降る白狐塚の谷】

 まだ血が滴り落ちる赤霙を手に廊下に戻ると、一つの顔が階段から覗いていた――その顔はお雪の記憶によく残っている女のものだった。
 おのうは慌てて一目散に階段を登り、逃げ去って行った。
――あの女は、殺さねばならない。
 お雪は赤霙を手に持ち、ひたりひたりと廊下を歩き、階段の前に立った。そしてゆっくりと、妖狐と共に一段一段階段を登った。
 上階の広間は意外に明るさがあった。
――館の外壁に火が回りつつあるせいに違いない。
 お雪はそう思った。煙の臭いも僅かながら強まりつつある。
 やって来た娘を見ておのうは数歩下がったが、口元は笑っていて、お雪がふと自らの右側を見ると、見覚えがある別の若い女が立っていた。
 次の瞬間には、刀と刀とがぶつかっていた――
「ヒトミ!ほぉれ、やっちまいな……!」と横から声が聞こえた。お雪は相手を見た。
 若い女の右瞼の上には、眼球を模したと思われる桃色の刺青が見えた。
 女の剣捌きは速いはずだった。だがお雪は不思議な感覚に包まれていた。
――速い。剣の振りは速い。だが、ぬるい。生ぬるい甘さがある。私は剣の使い方もろくに分からないただの犬小屋のお姫様。でも、この者が本気で殺しに来る相手との戦いにはまるで不慣れな事が、分かる。この刀、赤霙を握る手の感触から、それがすぐに、はっきりと伝わってきた。この女は自分よりも数段弱い相手や無抵抗の者としか勝負をした事が無い。心配は無用である。
 金属音が耳に聞こえ、相手の女の表情の僅かな変化が目に映った。
――殺せる。
 赤霙はそう語ったようにお雪は感じた。
 女はすぐに追い詰められてしまった。途端に焦りの表情が女の顔に浮かび、おのうの笑い声も消え……赤霙は女の一つの眼球を捉えた。右目の眼球だった。
 頭部を突き抜けた刀を娘が引くと甲高い悲鳴が部屋に響き、女は両手を開き刀を床に落とし、板張の床に手と膝を突いた。お雪は、女が子狐の胴を抱えた姿を今尚鮮明に記憶していて、それを思い返した時には既に容赦なく女の首を刎ね飛ばしていた。
 血飛沫は高く天井まで飛んだ。
 床に突いた手は虫のようにかくかくと指を細かに震わせ、床に落ちた頭に妖狐は素早く駆け寄って前脚で顔を抑え付け、左右の目に対し順番に鼻先を強引に突っ込み、眼球と周りの肉を抉って食し尽くした。空虚な眼窩から血の涙を流し、顔は苦悶に満ちた皺だらけの表情で固まっていた。
――この顔は、あの狐婆様にそっくりだ。
 娘は思った
 おのうは後退りした。
 お雪は振り向き、おのうに向かって接近した。
「ははは……待って!私とあんたの仲でしょう?落ち着いてよ、お雪ちゃん……」
 お雪は何も言わず、赤霙を手にしたまま接近を続けた。この女の刺青は記憶していた。
 おのうは笑った。
 だが、おのうは突然懐から隠し持った短刀を取り出し形相を変え、投げつける構えを見せた。
 お雪は、時間が止まったかのように感じた。
――反応が遅れた。
 だがそう思った瞬間に、蒼次朗は風のように跳び込み女の利き手に瞬時に噛みつき、力任せに素早く食い千切り、骨と肉片を短刀ごと壁にぶち投げた。
 娘は様子を観察した。
――悲鳴をあげ倒れた女の顔面に狐は容赦なく噛みつき、けたたましく醜い叫び声が広間に激しく響き渡り女はミミズのように体をくねらせ決死の抵抗でもがいたが、鋭い爪で顔は潰され頭骨は削られ着物は既に裂かれている。体中の肉も臓物も骨ごと徹底的に抉られては投げ捨てられ、骨格も頭蓋骨すらも形は消え失せていて、膜が破れた桃色の脳と尾のような脊髄だけが血溜りの上に残っている……。
 妖狐はそれらを前足ですり潰して、舌ですくって口に運び、事を終えると娘を見てにったりと赤く笑った……。
「危うい所だったな。だが心配するな」と言う蒼次朗に対し、お雪は礼を述べた。
 三階へと続く階段が奥にあり、誰かが上に登った。お雪も蒼次朗も互いにやるべき事が分かっていて意思疎通もできていた。
 お雪達は階段の下へと向かった。
「母狐はどこか!思う事は何かあるか」と蒼次朗は語気を強めて言った。
 返事は無かった。
 お雪が用心しながら蒼次朗と共に三階に至ると、奥にいた鬼は、自慢の直刀を既に鞘から抜いていた。

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