第九章:赤狐門④【雪降る白狐塚の谷】

 音がした。お雪がその方向に目を遣ると、蒼次朗は桃色の肉体を漁っていた。やがて彼はお雪の傍まで軽い足取りで戻って来た。
 彼は鬼の館を見た。
「よいか、お雪。ここにいる者達は特に、例外無く皆殺しにする必要がある」と彼は言った。
 血まみれの着物姿のお雪もそれに同意した。
 この時も蒼次朗は巧妙な謀を考えていて、彼は屋敷の裏から外に出る事のできる部屋を知っていた。彼は初めにその付近の塀に火を付け、裏からは逃げられぬようにした。だがこれまで外で待ち伏せるよう娘に指示していた蒼次朗は、どういうわけか今度は玄関口前に行き、戸の前で律儀に挨拶までした。
「母狐はいるか」と彼は強く言ったが、返事は無かった。
 妖狐は鋭い爪で紙でも破くようにあっという間に戸をばらばらに破壊し、中へ入って行った。お雪もそれに続いて真っ赤な雪草鞋を床に踏み入れた。中は静まり返っていた。
 玄関から左右に伸びる廊下の右の様子を蒼次朗は窺い、お雪は左へ曲がった。暗い調理場に行くと誰もおらず弱い釜戸火で何かが煮られていた。ここには外への戸口は無い。
 廊下に戻ると左手の部屋の襖が少し開いており、誰かが急いで閉めた。蒼次朗は体当たりして襖を破壊し、前に倒した。
 中には大勢の女達と共に、見慣れた心之介と、見覚えのある大きく肥えた男がいた。
 心之介を除き、者どもは奥の障子に向けて一直線に逃げた。
 心之介は逃げようとする男に対して「馬鹿野郎!肝太郎、逃げるな、戦え!」と壁際から怒鳴り散らしていた。
 女の一人は障子を開けたが外から炎が入ってきて火に包まれ、叫びながら慌てて閉めた。
 それでも肥えた男と他の女達は力ずくで外に出ようとしたが、お雪は男の背後に忍び寄り右の脇腹を突き刺してえぐるとごっそり肉が落ち、血が溢れた。
 男は聞き取れない声を発しながら前に倒れて、床の上に突っ伏した。
「あっ!」と言う心之介の声が聞こえた。
 肥えた男は呻きながらまだ動いており、娘は胴の左に刀を立てて力を入れ、右に引いた。それでも尚、男は動いたので刀が左から右に引かれ、胴体は次々に輪切りにされて行った。女達の悲鳴があがった。
 お雪は十数人も虫のように集まる女達を見て、炎で着衣がはだけた女の一人の腰に刺青があるのを見た。なる程と彼女は思い刀を構え、獄舎の処刑人の如く、しかし首ではなく胴を狙ってぶった斬りにし、女は上の半身を床に落とし、「あああっ」と言う心之介の声が聞こえ、お雪は逃げ惑う他の女達も次々に胴から切断して行き、断面から溢れて流れ出る臓物は魔物に見えた。高い悲鳴はその魔物が発しているようにも聞こえた。
 お雪は切断し終えた一人一人から溢れる魔物に刀を立ててすり潰すように何度も突き刺した。
「ああああああ!」と心之介は言って壁を背に部屋の隅に逃げ、そこで床に尻を突いた。
 妖狐は臓器を潰して中身を全部外に出してから皮袋をすすって食していたが、やがて真っ赤な口先を心之介に向けた。
 心之介は寝間着姿で刀を腰に差しておらず、口を呆けたように巨大に開き「ああああああっ!あーっ、ああー」と喚き震えながら失禁し、刀を手に取ろうと腕を伸ばしていたがそれは到底届かぬ距離の位置の床に置かれていた。
 心之介の寝巻の一部がはだけて胸の刺青が見えた。
――これを、この刀で突けばよいわけだ。
 お雪が構えると、男は両手を背後に突いた姿勢のままに凄まじい速さで虫のように這って部屋の外に逃れ、蒼次朗は素早くその跡を追い、娘もそれに続いた。
 廊下の調理場とは反対の突き当りから大声が聞こえた。
 心之介は顎が外れたように口を異常に大きく開き、腹部と首元には鋭い爪が深く食い込み、胸部は中央から左胸にかけて激しく抉られ刺青は最早見えず、剥き出しの心臓を潰れる程に幾度も妖狐にかじられている最中で、目玉は飛び出て鼻と口からもおびただしい量の血を噴き、床にも壁にも天井にも撒き散らしていた。
 いまだ脈打つ男の心臓を、妖狐は力任せに噛み千切った。
 その臓器は幾多もの血管の枝ごと噛み潰され呑み込まれ、男は滑稽にも見える真っ赤な顔のまま自らの血の溜まりに沈んでしまった。
 すると近くの部屋の中から「ひいい。兄貴」と言う男の声がした。
 妖狐は振り向き「母狐はそこにいるか」と言い、言い終わらぬうちにその部屋に入って行き、また叫喚が起きた。お雪が畳張りの部屋に入ると男が二人、肉を削がれ新鮮な骨が剥き出しとなったまま壁にもたれていた。この二人が誰なのか彼女にはよく分からなかった。よしんば見覚えがあったとしても顔面と頭部の損傷も酷く、判別できそうになかった。
 部屋にはもう一人がいた。それはお雪が何度も見て姿形を記憶していた男であった――既に右耳を失い、血を畳に垂らし続けていた耳介は、部屋の隅で腰を抜かし座り込んでいた。
 右耳は妖狐の口先に咥えられていた。
 近くに脇差らしき刀は落ちていたが、男はただ「悪かった、悪かった」と繰り返し、目を泳がせていた。
「食べ物が欲しい」と妖狐は言って、長い舌を出してうねらせた。
「食べ物、食べ物……に、肉」と男は唱えるように言った。
 その時に妖狐は少し可笑しそうに笑ったようにお雪には見えた。
 狐の舌は黒色に近い濃い紺色で、ぬめって異常に長かった。舌は狙いを定めたように一瞬動きを止め、次の瞬間に男の右耳があった場所から左耳に向け頭を一気に串刺しにした。
 頭部を突き抜けた舌の先端から血が伝わり始めた――男は赤ん坊のような叫び声を発し、諤々に、震え何か呻き、鼻血を激しく垂れて白目を剥いた。その白目も次第に赤く染まってきた。
 妖狐は明確に笑いながら舌を抜き、「肉は要るか」と言った。
 男は返事をするどころではなかった。
 妖狐は男の頭に近付き前足の鋭い爪で残っていた耳を頭蓋ごとえぐり取った。男の顔は損傷と流血と苦悶とで人間離れしてきたようだった、しかしそれでも男はまだ生き続け、血まみれになりながら叫び声を発していた。
 妖狐は娘に対し、斬れと命じた――娘は男に近寄った。
 赤霙が額に付けられ、そして一文字に脚と脚の間に向けて引かれた――半身が左右に分かれ両耳を手で塞いだ姿勢の死者を、お雪はそれ以上損壊しなかった。彼女は、自分の中に今度は何か冷えた感情が生じている事を察知した。それは空虚さとは異質の、何か冷たく暗いものであるように感じられた。

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