何かが聞こえた。妖狐の声ではない。
男の声であるようだった。唸りや悲鳴ではない。
言葉を発している。お雪には聞き覚えがある。
「てめえ……逃がしたまま放っておいたら……!」
誰かが言った。刀を手に持った腕吉だった。
火傷で片目周りと唇が腫れ上がり、髪の半分は焼け落ち、恐らくは怒りの表情でもあろうが闇の中で大変悪い人相となっていた。
それ以上は何も言わずに、男は猛然と地の雪に踏み込み襲ってきた。
男の豪速の剣撃を、赤霙は一度防いだ。音が鳴った気がした。だがお雪は正確には覚えていない。次の剣撃が来た。赤霙はそれも防いだ。
三度目の剣撃も四度目の剣撃も五度の剣撃も赤霙は防いだ――お雪のお姫様の剣と、刺し傷と火傷の手負いがあるにせよ鍛えられた男の剣は、本来ならば全く勝負にならぬはずだった。
だが朱の妖狐の長刀は、男の手から娘を何度でも守った。
お雪にはその自覚があった――激しい怒りを発しているのは自分ではなくこの妖刀そのものに違いないと。
あるいは母が守ってくれているのかともお雪は思った。そしてふと、母との果たされる事の無い約束が思い起こされ、お雪の感情を極めて激しく揺さぶった。
赤霙は、また一つの剣撃からお雪を守った。
腕吉はこんな小娘に一撃が入らぬ事に苛立ったのか、斬り付けるのを止めて刀で突こうとする構えを見せたが、お雪は力の限り前に踏み込んだ。
彼女は、母の名を叫んでいた。
赤霙の刃が男の右肩と上腕の境に上から喰い込んだ――その瞬間はお雪の目にはっきりと映った。血が飛んだかどうか。彼女は見ていない。
男の右腕は斬り落とされた。同時に左手も共に落ち、赤霙の刃はそのまま勢い余って相手の右脚の膝も深く斬り裂いた。筋肉質の太い右腕は雪面に落ち、長刀は手から離れて地の雪の上に落ちた。腕吉は悲鳴をあげて両膝を地の雪に突いた――痛みというよりは恐怖に由来する悲鳴だった。
出血の故か不覚にも腰を抜かした故か、最早立ち上がれなくなった男に、娘は近付いた。
「母上はどこ」とお雪は言い、真っ赤な目で相手を見据えた。
腕吉は目を見開きおののいて、声が出なかったのか、口をぱくぱくさせた。
あるいは、何かは言ったのだがお雪の耳には入っていなかったのかもしれぬ……
赤霙の凶刃が男の頭骨のこめかみから眼窩を抜け頬骨の下まで一気に喰い込んだ。
相手の口が、大きく開いた。お雪は赤霙を振り上げ再度頭部を斬り付け今度は胴の下部まで刃が一気に喰い込み、お雪は叩き殺すように上から相手を刀の刃で何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も斬り付け、お雪は母上母上母上母上母上母上母上母上母上母上母上母上母上母上と激しく叫び「返して、母上を返して」と泣きながら何度も何度も叫び、最早相手の肉体は全身ズタズタで一体何の形かも不明瞭な程に崩れ果て、強いて例えるのであれば、その姿は雪の塊が熱で溶けたような無残さであったと言えようか――血の溜まりに浮かぶ左手と右の腕だけは切断面を除き元の形を保ち、腕の衣を蒼次朗は裂き、露わとなった刺青のある上腕の肉を噛み千切って咥え、闇夜を仰ぎ、響き渡る声で幾度も幾度も鳴いた。
朱の妖狐が来た、腕吉がやられたと誰かが叫んだ。
別の者は狐の娘が来たと言った。誰もが武器をとっくに放り投げて遁走を図っていたが、それを娘は追いかけた。いまだ叫び続け泣きじゃくり、背後を襲った。
赤霙が激しく舞った。彼女は溢れ出る自らの激情に、激しい血飛沫と飛び散って行く桜色の肉片を重ね合わせた。赤霙を振りながら慟哭を続ける彼女は、自らの感情が悲しみに非常に近いものである事を実感した。そして彼女は、蒼次朗の姉であるという妖狐がかつて如何なる思いでこの刀を振ったのかを想像すると涙が止まらなくなった。
吹雪が止む事はなかった。しかし辺りは静かになりつつあった。
お雪は周りに人がいなくなった事に気付いた。
――血溜りだらけの雪面上に私は孤独に立っている。蒼次朗はどこだろう。どこかにいるはずだが自分の正面の視界内には見当たらない。
お雪は自分をまるで他人のように感じていた。彼女は息を切らし乱れた前髪を直す事なく、辺りを見渡した。
集落内のこの方面の家々は壊滅に近付いていた。一つの家は黒く焦げた柱と梁の組みを晒し、屋根が崩落していた。その残骸は死者の骨のようにお雪には見えた。木材が軒並み焼き尽くされ燃える物が無くなると、火は役目を終えたように急速に凍える闇夜の中に消えて行った。そして集落内は再び闇になりつつあった。
何人かの者達が、唯一火が付いていない最も大きな家に逃げ込むのをお雪は見た。
――そういえばまだこの家を襲っていなかった。鬼が棲む屋敷だ。
お雪はぼんやりと思った。
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