第九章:赤狐門②【雪降る白狐塚の谷】

 すると、衣服が燃えて裸になった男女が慌てた蟻の如く、燃える家から互いを押しのけて飛び出てきた。そこに、お雪はすっと近付いた。
「母狐はいるか」と妖狐は闇の中で突然言った。
 裸が一斉に声の方を向くと、赤霙が背後から次々と首や肩の肌に食い込んだ。
 裸は何が起きたのか分からぬままに崩れたようにお雪には見えた、
 彼女は赤霙の柄を両手で握ったまま、しばし呆然としたように立ち尽くした。
 刃が肌に食い込んだ時の手応えの感触は妙に心地良く、噴いた血飛沫は美しかった。
――刺青。
 崩れた裸にはどんな刺青があるのか、彼女は少し気になって上から覗き込んだ。
 それは暗くてよく見えなかった。しかし妖狐は刺青が彫られた部位が分かっているのか、崩れた体に素早く飛び掛かり、胴体の部分のどこかを爪と牙でえぐるように損壊し、塊状の肉片を、血が噴いたままの状態で食したのだった。その時にお雪は崩れた裸の中にまだ息の根があり呻いている者がいる事に気付いたが、妖狐はその頭を強力な顎でかじって潰し、息の根を止めた。彼はその頭部を食さなかった。
 さて、同じ手口で妖狐と娘は一軒ずつ家を襲ったのである。
 闇から肌と肉に斬り付けるごとに、激しい返り血がお雪の着物や顔や手に飛び散った。
 この時も彼女は自分の中に何か強い感情を抱かなかった――妖狐がおびき出し、気を引いて自分が闇討ちするという行いだけを彼女は淡々と行っていたのであった。
 それは一連の簡単な作業だった。
 しかし集落の家の者達も次第に異変に気付き始めたようだった。火の中から武器を持て出て来る裸も現れた。彼らは、母はどこかと言う妖狐の声に対し異常な程に反応した。それを背後から妖刀で次々と斬り殺すのは容易な事であった――それは無論の事、正々堂々たる勝負などとは言えぬものであったが、それはお雪にとっても妖狐にとっても、どうでもよい事であった。
――この赤い刀はただの鋭い金属ではない。殺意そのものである。
 その意味がうっすらと娘に理解されようとしていた。
 お雪は赤霙の柄を一層強く握った。そこから何か液体が滲み出ているような感触があり、実際何か赤黒い液体が柄を伝って雫となって地の雪に垂れていた。
 誰か外で武器を持った者が娘の存在に気付いた。お雪もそれに気付き、刀を構えた。相手は向かって来るかと思われたが、恐らくは闇と地の雪と猛吹雪のためか、ほとんどまともな動きすらもできないようだった。
 そこに妖狐が飛んだ。強力な顎は空中から一撃で頭部を砕いた。お雪は坂の地中や雪原に仕掛けられたあの銀色の罠を思い起こした。牙と骨肉の接触はお雪からは詳細には見えなかったが何かが爆発したように飛び散ったのは分かった。花を連想しても良い気がした。 
 頭部を欠いた体はゆったりと地の雪に倒れた。真っ黒にも見える血が器から水をこぼしたように溢れ出ていた――地の白い雪がそれに混じって溶けて行く姿をお雪は静かに見つめた。妖狐は空中から地の雪に器用に降り立ち、脚の辺りの肉を食い千切っていた。
 既にかなり多くの肉体が刻まれていた。
――この刀の……赤霙の刃の鋭さは全く衰えていない。むしろ、鮮血に混じって輝きは増し続けたみたい。
 お雪にはそう思えた。この時もまた、お雪の心中は何かで満ちているというよりはむしろ空虚だった。
 自分の心はあの骨の湖に全て置いてきたのかもしれないと、彼女はぼんやりと思った。
 まだ火の付いていない家から、別の裸でない者達が武器を持って出てきた。彼らは口々に何かを叫んでいた。彼らは警戒しているようであった。お雪は吹雪の中からそれを見た。
 お雪は辺りを見回した。彼女は蒼次朗を探していた。
「……蒼次朗」
 その声にしっかりと応えるかのように、妖狐は彼女の足元にいた。
 彼はお雪を見上げた。彼は口元に笑みを浮かべているようにお雪には見えた。
 何人かの男達がこちらに向かって来ていると思われた。お雪は息を吸った。
 その時に何かがお雪の脳裏に浮かんだ。
 見覚えのある者だった――老婆が現れた。あるいはそれに似た者だった。
――人を殺しちゃならねえ……
 その者はお雪の頭の中で言った。
――狐には、感謝しなくちゃいけねえ……
 その者はまた言った。
――狐は殺し尽くしたから、こんな谷などとっとと捨てなきゃならねえ……
 三度目の言葉を聞き終えた時にはお雪は怒りに震え、死して尚この世に居座り続ける魔物に猛然と立ち向かっていた。
 自身の頭の中で、お雪は刀を持って魔物に突撃した。赤霙で頭から全力で斬り付け容赦なく全身滅多斬りにし、「ぎゃあああ」と相手は醜い悲鳴をあげた。魔物は血をぶちまけ崩れ、顔から両の眼球が勢いよく飛び出し、どこかに消えた。相手が倒れても尚、お雪は斬るのをやめなかった。
 ……気付けば、お雪は目の前の相手に同じ事をしていた。
 これまで以上に激しい血飛沫が舞い、激しい返り血が自らに飛び散っているのを娘は理解した。そして彼女は自らの激しい意志で相手を襲っていた。獲物を見つけ次第瞬時に駆け寄り、何度も叩き斬り、滅多斬りにし、短い時間が許す限り損壊していた。
 お雪は自らの心中の激情をはっきりと感じ取った。その反面、目の前の視界は正確で無くなっているように感じ始めた――それは闇と吹雪だけによるものではないと思われた。
 向かって来ようとしていた者達は既に、この小さな誰かを明らかに恐れていた。
「それでいいのだぞ、お雪」と言う妖狐の声が聞こえた。
 それは丁度、娘が妖狐を見失ったと思った頃だった。彼は死体の損壊に忙しかった。
 お雪は赤霙を懸命に振った。あまりに血が周囲に飛んだので、降る雪が雨か霙になったかと彼女が錯覚しそうになる程だった。
 お雪はほんの少し息切れし、血でびちゃびちゃの雪面を歩いていた。

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