第八章:獄門峡⑤【雪降る白狐塚の谷】

――この場所には結局何があるのか?お雪は知りたく思った。
 最早、禁としておく必要は全く無いように思えた。狐に関する何かがあるに違いないと、彼女は確信していた。蒼次朗は口を開けて顎と鼻先を小屋の網戸に突っ込み、戸を強引に引っ張って外した。彼はそれを小屋の背後に回って立て掛け、すぐに戻ってきた。
 お雪は小屋の真正面に立っていた。
 小屋の中身が姿を現した――安置されていたのは、横たわった長刀だった。
 黒ずんだ奥の壁と、框をそのまま床にしただけの簡単な造りの小屋の中にそれはあった。
 元々は母狐の白狐刀であり、後で蒼次朗の姉が打ち直したものであるという。
 名を赤霙と言い、母狐が自らの腕を斬り落とした刀であり、朱の妖狐が里に帰ってきた時に集落の「マツリ」の列を襲った刀であり、妖刀中の妖刀であると蒼次朗は語った。
そしてそれを手に取ってみるようにと蒼の妖狐は娘に言った。
 刀は鞘に納まっていなかった。うっすらと湾曲した刀身全体が赤みを帯び、刃は闇の中でも尚なまめかしい光彩を放ち輝いていた。焼き入れの刃文は激しく飛び散った血飛沫の中を流れるしなやかな尾の如き姿で、暗赤色の鍔とはばきが包む刀身の根元から出で立ち、繊細にも見える刃の曲線に沿いながら、伸びがある切先へと優美に弧を描き入って行くのであった。
 お雪は呼吸も心臓の鼓動も、妙に落ち着いていた。刀の柄には真紅の布が規則正しく巻かれていた。彼女は手を伸ばした――どれだけ重いかと思えばそれは恐ろしく軽く感じられた。
――いや、重さは確かにある。でも、持てる。
 不思議な感覚だった。柄巻きの布は湿っていたが、不快な感覚は全く無く、むしろ手の平と指に密着して心地良く、刀が支えられ、手と刀が同化する錯覚さえ起こさせた。横たわる姿勢で浮いたその長刀を彼女はそっと引き出し手元に寄せ、闇の空に向けて立ててみると、何とも見惚れるような妖艶な佇まいで女のようにも見えた。豪ならぬ「妖」の刀であった。
 蒼次朗は、小屋の裏方近くの岩陰から何かを引っ張り出した。お雪が知らない誰か若い女で、上等な着物を着て首元には深い裂傷がある死者だった。彼は死者から着物を剥いで裸にし、刀で斬ってみるようにお雪に告げた。お雪はその傍に寄った。
 お雪は刀をゆっくりと下ろし、死者の脚の付け根辺りに刃を当てた。刃は入って行き、途中で手応えが一瞬だけ変わり、骨かと思ったが困難もなくそれを通過して下部まで切断できた。水や風を切るのとは違い確かな手応えがあった。
 少し時間を使って、お雪は死者を損壊した。上手だと蒼次朗は褒めた。
 彼は集落の者どもが谷を去る前に、母狐から奪ったものを全て返してもらうと言った。
 朱の妖狐は怒りの狐。しかし慈悲深く、里に帰る度に何かが変わった事を願い続けた。
 だが蒼の妖狐はそのように生ぬるくはない。
 蒼の妖狐は怨みの狐。その怨念はどこまでも深く、執念深く、永劫に渡って相手に憑く。
 最も恐ろしいのは白の狐。妖魔の者どもはそれを知っている。最後の白狐は山から消えてしまった――朱の妖狐も真紅に染まるべき時が来た。
 妖の刀は怒りの刀。その恐ろしさは今宵、谷にまた一度舞うべきである。
 血に染まった白狐刀は赤霙となり谷の空に舞う。
 蒼の妖狐は語り続けた。
 お雪――お前も、返してもらうべきものがある。
 それを今宵――返してもらいに行こう。
 さあ……。共に。お雪。
 刀の柄を握る手の力は強まっていた。お雪は赤い輝きを放つ刀身を見つめた。
 赤霙が闇夜の中で何かを語ったように彼女は感じた。

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【※注釈:霙 [みぞれ]】