第八章:獄門峡④【雪降る白狐塚の谷】

 妖狐はぺちゃぺちゃと自らの口元を舐める仕草をして、歩き始めた。
「どこへ行くの」とお雪は尋ねた。
「母狐の弔いをしに行く」と妖狐は答えて歩き続けたが、ある時に足を止めて首だけ振り返り「お前も来るか」と言い、お雪は「私も行く」と小さく、しかし自分でも妙な程に明瞭に言った。その時に妖狐は口元に少し笑みを浮かべたようにも見えた。
 お雪は脚に力を入れ、何とか立ち上がろうとした。思いの他、上手く立てた。降る雪は強まる一方だったが、お雪は構わず妖狐を追い、やがて彼女は骨の湖から雪原となった荒野に戻った。妖狐の後ろ姿は闇に溶け込むようだったが、足跡は点々とよく見えた。
 妖狐が向かった先は白狐の塚だった。粉雪の付いた石碑を彼は丁寧に舐めて綺麗にした。
「母狐よ、母狐よ。母狐なる白狐よ、子狐が参りました。我ら、今ここに参りました」
 彼は塚の前に座し、前脚は立てて首を曲げて垂れ、耳と額と鼻先を地の雪にうずめた。
 お雪はその後ろで立ち、体の前に両の手を組み黙って聞いていた。彼はお雪の母の弔いに付き合ったのだから、彼女が彼の母狐の弔いに付き合うのは当然だと感じた。そして、華やかさは何も無いがこれが本来の狐のマツリではないかと思った。鎮魂の儀式だった。
 お雪の「狐の尾」が舞う中、狐は頭を上げて真っ直ぐに塚を見据え、何かを唱え始めた。
 彼が発した文言は非常に古めかしかったが、内容はおおよそ次のようなものであった。
……獄から逃れて谷で飢えた娘は獄守達の話を頼りに禁とされる妖魔の森に入り、子狐と出会った。子狐は娘を慕い山の母狐の元へ案内した。母狐は娘とその血族を哀れに思い、眠りに就く直前で与える食べ物が無かったので白狐刀で自らの右腕を斬り落とし、娘に血を飲ませ腕を与えた。娘は右腕を持ち帰ったが、山に狐が眠る事を知った血族の者どもは娘を拷問し道を吐かせ山に向かい、眠りに就いていた母狐と子狐達を賊の刀で辱め殺し、娘と出会った子狐と長姉の二匹だけが痛みで目覚め巣穴から逃げた。再会した子狐と娘は深く嘆き、母狐の亡骸をここに埋めて塚を建て、ただ雪の上にひれ伏して詫びた――
 言い終えると狐は再び頭を垂れ、まるで死したように地の雪に肩から前に突っ伏した。
 やがて、彼は雪まみれの顔をもたげ体をお雪に向けた。彼とお雪は見つめ合った。
「蒼次朗」とお雪は相手の名を呼んでいた。
 あなたはもしかして、その時から生き続ける子狐なの……
 声には出なかったがお雪は自分の唇は動いている気がした。相手は年老いたような狐の顔の閉じた口元をゆっくりと笑みを浮かべた形に変えた。彼は、あちらにも母狐の大切なものがあると言ってどこか暗闇を向き、共に行こうとお雪を誘い、歩み始めた。そこでお雪は彼に付いて行った。夜の猛吹雪の中、お雪は殆ど闇と降る雪しか見えなかった。
 蒼次朗と雪彦には意外な事に血縁があるらしく、雪彦は蒼次朗の甥だという。
「しかし奴は俺に対して全く敬意を払わぬ」
 彼はそれが不満らしく苦笑した。雪彦の母、即ち蒼次朗の姉である妖狐はこの谷と山を離れる道を選んだ。だが白狐は、この地を離れると白狐ではいられなくなる――毛の色だけの話ではなく魂が変わるのだと、蒼次朗は語った。
 山を遠く離れた彼の姉は朱の妖狐となり、数年に一度程だけこの里の地に帰って来たという。だが姉狐は年老いて、いつからか息子にその役目を任せていたと――
 お雪は静かに聞いていたが、ふと口を開いた。
「山に残り続けた白い狐は、ずっと白いままの狐でいたかったから――」
 彼女は彼に尋ねたのかそれとも単に呟いただけか、自分でも分からなかった。
「そうかもしれぬな」と蒼次朗は言った。
 弟の子狐は谷に降りてそこに残り続け、二度と眠れぬ体となり蒼の妖狐に転じたという。
 ある時に、山に残っていた最後の白狐の親子と黒丸の事に話が及んだ。
お雪は視線を下げて落ち度を蒼次朗に詫びた。蒼次朗は、お雪は勇敢だったとむしろ称えた。彼はあの時に狐地蔵の坂の番をしていたが、お雪の声が聞こえたので巣穴の方へと向かったのだという。
 「……あなたが来たのも、私は見たわ。確か、後で」
「だが終始、俺の名は結局一度も呼んでくれなかったな。雪彦と黒丸の名は呼んだのに」
「ごめんなさい」
「くくく……まあいいさ。お前は、良い娘だ」
 蒼次朗がどこに向かおうとしているか、お雪には全く分からなかった。所々、斜面を上り下りした。幾つか丘を越えたはずだとお雪は理解していた。
 一つの斜面に妙に見慣れた気のする大きな岩があった。いつの日か、その背後にお雪は雪彦と共に忍んで身を隠していたはずだった。
 そしてその斜面を登り丘の上に着くと、枯れ木の傍に立つあの小屋があった。お雪は巡り巡ってここに戻ったのだと理解した。妖狐の親子の遺骸はもう見当たらなかった。
 小屋の周囲では積雪が比較的少なかった。

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