雪彦は、あまり愉快でなさそうな表情で蒼次朗を見た。
お雪は雪彦の方が良かった。だが一時的には誰でも良かった。集落の人間を除いては。
お雪の感情を察知したのか、雪彦は不本意ながらこの場を蒼次朗に任せる事にしたようだった。
「分かった……。じゃあ蒼次朗、少しの間、頼むよ?」と雪彦は言った。
彼は山に体を向け、首だけ振り返り「くれぐれも頼むよ」と念を押すように言った。
蒼次朗は笑い、自信ありげに「任せておけ」と言った。雪彦が去った後しばらくの間、お雪はそのもう一体の妖狐とぽつんとそこに座っていた。気付くと、ちらほらと雪が舞い始めていた。周りは暗くなり冷えてきた。井戸の周りでは荷車が動き出していた。恐らくどこか集落から出る方面に進んでいるようだった。肉を袋に詰めた者達は上も下も各々の家に戻り、解体を行った台だけは井戸の傍に置きっ放しだった。
お雪と共に蒼次朗もそれを見ていた。そして蒼次朗はゆっくりと首を動かし、顔をお雪に向けた。
「骨だけでも、集めるか?」と彼は言った。お雪は「え?」と聞き返した。
「骨だけでも集めて、葬るか?」と彼はもう一度言った。
骨など間近で見たくもなかったが「葬る」という言葉には彼女は反応し、母に対しそれくらいの事はせめて最後にしたいと思った。それが最後だと彼女は思った。
娘の表情を見て、妖狐は少し笑った。
「よし。それならあの車の跡をつけよう。骨を捨てる場所まで行って、集めればよい」
お雪は力を振り絞って立ち上がり、妖狐と共に歩き始めた。最後だ。お雪は自分に言い聞かせた。闇が深まるにつれ、降る雪は強まっていた。本当なら家に帰る時刻である――彼女は黙って車を追った。
あるいは、正確にはお雪は車を追っていなかったかもしれぬ。雪で視界が悪いうえに左の視覚が狂って、彼女は隣を歩く妖狐を追っていただけかもしれぬ。
彼女の横で、妖狐は何か話していた。
「あれは松ではなくヒノキであると知っているか」
方向感覚もとっくに狂っていたお雪は「三兄弟」の場所に来ているのだと思った。
二人は闇の中を歩き続けた。
妖狐はお雪と共に彼は松と檜の違いを語った。
「簡単な見分け方としては、葉の形が違う」
賢いのだなと思いながら、お雪は少し朦朧として話を聞いていた。
彼は積もりつつあった雪の上をさくさくと歩き、小さな足跡をつけていた。
あの一直線の木の並び方は、やはり誰かが植えたものだったようだった。
「かつて谷の開拓を試みた者達が木を植えたが上手く行かず、あの三本だけたまたま力強く育ったのだ。
外の世界の犯罪人が開拓者として使役され、大抵の者が飢餓か寒さで命を落とし、脱走を図る者も全て殺された。ここは外の世界から見て、実質的には都合良い秘密の処刑場となっていたのだ」
妖狐はそう語った。
――詳しい。まるでずっと見てきたように。闇の中の妖狐を見つめ、お雪は思った。
妖狐は歩き続け、お雪も歩き続けた。「三兄弟」は過ぎ去って行った。降る雪が強まり、お雪はいつかの日の事を少しだけ思い返した。すると妖狐はある場所で足を止めた。
「お前、あの時に俺がここにいたのは分かっていたか?」と妖狐は言った。
彼は笑っていた。お雪は目の前に、谷の名称を記した塚がある事に気付いた。
「そのすぐ傍に俺はいたのだぞ。俺はお前を見て大変気に入ってしまってなあ……お前は何か母狐の感じに似ている――その母狐はここに葬られている」
妖狐は塚の雪を舐めていた。お雪は妖狐を見つめた。
「母狐って、あなたの……?」
「そう、母狐はここにおる。――おお。車が通るぞ。こっちへ隠れよう。おいで、お雪」
お雪は特に急ぐわけでもなく立ち上がり妖狐と共に岩陰に隠れた。空の荷車を引く者達の影が通った。荷車は集落へ戻ろうとしていた。お雪は、ぼんやりと車をやり過ごした。
何気なく、お雪は妖狐が自分の名をしっかり記憶している事に気付いた。
「では行くか」と妖狐は言ってまた歩き出した。お雪も歩いた。緩い斜面を下って行った。
その方面には、あの不思議な白い場所があるはずだった。
あの色は雪と区別つかないだろうから見えるか分からぬとお雪が思った時、妖狐は進路を変え「こっちの方かな」と言い急に曲がった。狐の足音の響きが変わり、何か堅い物同士がぶつかる音が聞こえた。
金属ではない――軽そうな音だった。
お雪が狐の跡を追うと、急に何かごつごつして歩きにくくなり、彼女は躓いて前に転び、手を地に突いた。正確には、そこは地面ではなかった。
慣れない独特の硬い手触り―― そこは骨が広がる湖だった。
それが、あの白い雪原のような場所だった。
沢山の何かの骨が積み重なり、凹凸のある白い表面を成していた。特に目立つのは頭蓋骨で、多くは顎の骨と分離していた。そこに他の細かい骨と雪が織り混ざっていた。お雪は手を突いたまま、ある時は不安の中で、ある時は好奇心に刺激され向かおうとした場所が今、遠くにまで広がっている様子を見つめていた。
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