第八章:獄門峡①【雪降る白狐塚の谷】

 お雪は走った。追う者はいなかった。だがどこに行けばよいか。家か。先程の現実を受け入れるなら、母はもういない。月衛門達は必ず家を調べに来るだろう。鍵をかけても無駄だろうし下層の大人達はお雪を助けるはずがない……山へ逃げる事も考えたが、普段ならともかく、今のお雪の体力と精神とでは山麓まで辿りつけるかも果たして怪しかった。
 集落と荒れ野の境目あたりの中途半端な場所を彼女は彷徨したが、自分の体なら完全に隠れる大きさの白色の岩を野に偶然に見つけ、その背後に身を隠した。何かが顔から垂れ続けていると思って左の頬を触ると、血であった。自分の血液であるという実感が彼女には沸かなかった。刃が飛んできた光景が蘇った。恐怖と緊張からか痛みは無かったが、左目から見える世界の像は既に崩れていた。
 時間が少し経った。
 隠れたその位置から集落の井戸が見える事にお雪は気付いた。ある時、木の台に乗った何かが運ばれてきた。頭領の家の方から何人かの男達が来て、一人は髪の縮れた腕吉で、あとは太い男の図体が目立っただけで残りの者は顔もよく分からなかった。
 彼らの後ろに荷車が続き、乗せられていたのは母だった――いや、より正確には「母だったもの」であって、それは腕と脚をもがれた人形となっていて、それを見たお雪もまた、人形のように硬直していた。お雪は自分が息をして心臓がかすかに脈打つ以外は、身体の機能が全て停止したように思えた。
 彼女がただ息だけをしていた時、何か赤く小さいものが彼女の脚に触れた。
 最初、それが一体何かお雪には全然分からなかった。
 それは、あの四足の赤色の狐だった。お雪は突然に現われたその狐を呆然と見た。
「お雪、僕だよ」と小さな声で狐は言った。
 言われてお雪は驚いた。そしてそれが確かに雪彦と同じ声だと気付き、消えかけた生命を僅かに取り戻した。
 かすれた声で「雪彦……?」とお雪が尋ねると、彼は狐の姿でお雪に近寄り、目の傷口を優しく舐めた。少し染みたが、どくどくと流れ出ていた血は止まった気がした。先程から徐々に痛みを感じつつもあったが、それも消えた。彼女は狐の耳に手を触れ、撫でてみた。狐は悲しそうにお雪を見つめていた。
 彼はやがて井戸の方を向き「吹雪はもう殺されてしまったのか」と母の名を口にした。
 お雪は黙っていた。傍の幾つかの小岩の陰には、硬く凍った雪が残っていた。
「すまない――彼らが君を殺しにかかるとは思わなくて、分かった時には遅くて。それと、黒丸を放っておくわけにはいかなくて、来るのがさらに遅れて……本当にすまない」
「黒丸は助かったの」とお雪が聞くと、「いや、駄目だった」と雪彦は力なく答えた。
 お雪の右目から大粒の涙がこぼれ、母が死んでしまった事を実感するとまたもう一つの涙が頬を伝った。声をあげれば気付かれる――お雪は必死に堪えた。雪彦はいたたまれぬように悲しげな表情のまま静かにお雪に近寄り、その頬を何度も舐めた。
 濃い灰色の雲が増えて広がりつつあり、日は落ちようとしていた。お雪の予想済ではあったが、彼らは母の遺体を損壊し解体しにかかった。これまでの集落の死者達と同じく、殺された妖狐の子供と同じく、恐らくはあの親子も既に、消えた集落の犬もきっと同じく…… 刃物によって母の形が無くなって―― 
「お雪、見なくていい」と雪彦は言った。だが彼女の身体の一切は動かなかった。
―― 最早、全てが終わったんだ。お雪は思った。
 切り取られた細かい破片も掻き集められ、そして集まっていた下層の男性達はぞろぞろと列をなし、一人一人が汚れた編み籠に盛って受け取っていた。お雪は彼らの手の指の数を一人ずつ数えようと思ったが、途中で分からなくなった。だが恐らく、下層の身分の生きる全員がその場にいた。
 残骸は、荷車に乗せられた。同乗していたのは、他の死者達の骨だった。母の所有物は色が他と違ったから、遠くからでも判別ができた。但しそこにはあの妖狐の親子の亡骸も混じっていたかもしれなかった。
 お雪は壊れて朽ち果てた人形のように動かず、雪彦もまた、狐の置物のようにしばらく動かなかった。凍えるような風が吹いた。雪彦はおもむろに狐の顔を上げ、お雪を見つめた。
「お雪。この間も言ったけれど、集落と、この谷を出よう。但し、もう今日中にでも。君はもうこれ以上、ここにはいれないだろうから……」
 言われて、お雪は頷いた。
「とりあえずここを動かないで。今、食べ物だけでも集めてくるから」
 言われて、お雪はまた頷いた。だが一人になるのが嫌だったのか、矛盾するように「雪彦、一緒にいて」と抑揚のない声で言った。そして雪彦の狐の毛を手で掴み、自分の元に寄せるように引っ張った。今もし鏡を見れば、自分は死者達と大体同じ顔であろうと彼女はうっすらと思った。
 雪彦は困ったようにお雪を見つめていたが、そこへ、何かが忍び寄って現れた。
 濁った蒼い色の妖狐だった。
 彼は現在の雪彦と同じく四足の姿だった。
「俺が見ていてやろうか?」と蒼次朗は言った。

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