ほぼ逃げ切ったと思ったのか、股五朗は胴を抱えながら笑った。
だがその時、何かが背後の岩陰から飛び出した。それは彼の股間から下腹部にかけて噛みつき、そして一気に食い千切ったのをお雪は見た。滝のように何かが溢れ、青年は悲鳴をあげ、首を欠いた子供と共にうつぶせに雪面に倒れ、這いずり回った。
お雪はそれを見た。
――あれは、あの濃い蒼色の妖狐だ。名前は何だっけ……今まで何度か出会って来た、あの恐ろしい妖狐。
妖狐は青年の背にのしかかり、今度は獰猛に首筋にかぶりついた。
近くにいた舌の刺青の男は、刀で狐に斬り掛かった。だが妖狐は素早くかわし、その刀はむしろ青年の首根っこを直撃し、血が溢れ出て青年の頭は胴を離れ雪原に転がった。男は子供の体を持って、とっととその場から逃げた。妖狐は背後にいた別の一人の頭部を襲い噛み砕いていた。
蒼色の妖狐は、親子の頭部を持っていた首蔵に目を向けた。男は驚きで足を止めて明らかに狼狽し始め、そして恐らくは誤って足元の岩から雪原に滑り落ちた。
すると雪の下にはお雪がいつか見た、あの怪物の口のような罠が隠されていたのである――罠は激しい金属音とともに男の鎖骨辺りから上を容赦なく切断した。真っ赤な血が噴いて雪原に散った。お雪はそれを見て、白色と赤色の対照的な色合いを不覚にも少しだけ美しくも感じた。
男と妖狐の親子の頭部は共々雪面を転がり、崖の下の深い窪地まで落下して行った。
腕吉達は一連の事をちらと見ただけで立ち止まろうともせずに「修羅の崖」を降り、谷に戻ると全速力で駆けて小屋前の広場まで戻った。狐は追ってこなかった。
血みどろの「狩り」によって一体誰が得をしたか、お雪には疑問だった。
小屋の前には待機していた男達に加え、頭領と何人かの女性達も混じっていた。
腕吉は物のようにお雪を地面に捨てた。お雪は腰を打ち、かろうじて上体のみ起こした。
「おいおい腕吉よぉ、どうしたそのざまは?ひでぇ面しやがって」と心之介は笑った。
「……見ての通りでさ、兄貴!白いやつは穴から獲ったが、それとは別の、冬眠に入ってない狐が二匹も三匹もいやがって……結構やられちまった。俺もこんなのは初めてだ」
「これしか生き残ってなくて、獲れたのは三匹だけか」
不満そうに言ったのは月衛門だった。戻った者の人数を見て、心之介も笑いを止めた。妖狐の親子の体はうつむせに地面に置かれた。お雪はそれらを見て首をうなだれた。
「頭はどうした?」と月衛門は詰問するように腕吉に言った。
「首蔵に持たせていたら、あいつ罠を踏みやがって……頭は全部崖下に落ちました」
「崖の下に落とした?――この狐の体以外は、何か物を分捕ってもこれなかったか」
「余裕がありませんでした」と腕吉は不本意気味に、月衛門に面と向かわずに答えた。
その場にはおのうもいた。おのうは「あたしの取り分がないだろうよ」と言って腕吉に詰め寄った。腕吉は何も答えずに痰を吐いた。
狩りに参加していた若い女はおのうに近寄り「私の分も無いです」と言った。その近くでは耳介は首の無い遺体を黙って見ていて、誰か別の男は首蔵という男の事を罵った。
おのうは不満そうに辺りを見渡し、あの股五朗がいない事に気付いたようだった。若衆はほとんど残っていなかった。おのうは腕吉を問いただし、腕吉は相手を睨み、その後で罵声が双方から飛んだ。横にいた心之介は「ちっ」と舌打ちした。
「まあ、仕方ねえ。とりあえず獲った分を解体しろ」と月衛門は命令した。
男達が刃物を持って親子の体の周りに集まった。お雪は止めに入りたかったが足が麻痺したように動かなかった。月衛門の目がお雪に向いていた。
「おい腕吉!こいつは結局、狐の穴の場所を知っていたのか?」
「実際、穴の場所は知っていましたよ――狐どもにも、俺らの存在を教えやがったけど」
その時におのうはお雪に近付き、そして突然蹴とばした。あばら骨辺りに強い痛みを伴う衝撃を感じてお雪は思わず悲鳴をあげた。同時に自分の体が浮いてすぐにまた地面に落ち、倒れた形になった事も分かった。お雪からはその時のおのうの顔の表情は見えなかったが、何となく想像が付いた。
間髪入れずに、吐き捨てるような声が続いた。
「こんなの早く殺して、この場で肉にしちまいなよ!」
「おいおい!それは勿体ないぜ……今後も、何かには使えるだろ?」
心之介は言ったが、反論してきたのは腕吉で、彼は自分の左腕の刺し傷を掲げた。
「いや……これ見てくれよ、兄貴!こいつ、俺の腕を刺しやがった。俺が狐を斬ろうとした時だ。こいつは、放置しておけば絶対に俺らに牙を剥くと思うぜ」
それでお雪は理解した。腕吉はあの時からお雪を殺すつもりであったが、ここで嬲るためにわざわざ連れ帰ったに違いなかった。 怒りの目、蔑む目、殺意の目がお雪に向いていた。
「どっち道、これじゃ食料も足りねえからな……こいつも狐と一緒に解体しちまえ」
月衛門は冷酷に言った。先程親子の体に集まっていた男達の一部がお雪を囲んだ。沢山の刃物の影は蠢く虫の脚に見えた。お雪はいよいよ諦めた。
その時に何人かの男が突然叫んで倒れた。そして何かがさらに斬り込んできた。男達は混乱し、お雪の周りから遠のいた。お雪は雪彦かと思った。だがそれは違った。
「お雪!早くお逃げ」と大声でそう言ったのは母だった。
刀を手に持ち鬼気迫る母を前にしてお雪は驚いたが、気を振り絞って痛みを忘れ立ち上がり、散在した男達の間を縫って一気に飛び出し、丘の斜面へと走った。その間に数人に襲われ、何かが硬く鈍い物がお雪の左目付近に当たった。だがお雪は構わずに駆け抜けた。
お雪を追おうとした男達に向かって母は懐から取り出した小型の刃物を何本も同時に次々と嵐のように投げつけた。刃物が男達の頭や首に命中し、彼らは次々に叫んで地に崩れた。
「この女」「やりやがった」「やっちまえ!」という声があがった。
男達は一斉に母に向けて襲い掛かった。刃物同士がぶつかる金属音が鳴り響き、お雪が時々振り返ると母の動きは凄まじかった。多勢を相手に怯むことなく母は次々と相手を薙ぎ倒した。男達は瞬時に何人も倒れた。誰も母に近付けず、襲い掛かっては斬られ、男達は怯み始めた。
だが離れた位置にいた月衛門がいきなり何かをぶん投げた。
母は倒れた。
直刀が背後から母の胸を貫いていた。お雪は振り向き様にそれをはっきりと見て、足が止まりかけたが堪えて走り続けた。
最後に視界に僅かに入ったのは、倒れた母に男達が群がる様子と、薄暗くなり始めた空を背にして黒影にも見えた枯れ木と小屋の姿であった。
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