第七章:修羅の崖⑤【雪降る白狐塚の谷】

 耳介は常にお雪の近くにいて、目と刃物を向けていた。ある時にお雪はそれに気付き、そして男の両の耳周りは妙に黒ずんでいたがそれが刺青である事にも気付いた。
「どうしたよ、耳介。こいつがそんなに気になるのかよ……」と腕吉はにやけて言った。
「それよりも、今年は出るはずだぜ……朱の妖狐が」
「何の狐が出るって……?」
「何年かに一度だけ現われるっていう、冬眠しない狐だ。親方は見た事があるって言うぜ。この娘と一緒にいた奴……俺はあれが朱の妖狐だと思う」
――朱の妖狐。お雪は雪彦の目の瞳の色が綺麗な赤色だった事を思い返した。
 腕吉は首を回しながら耳介に目を向けていた。
「ふうん……こいつと一緒にいた狐っていうのは、そんなに毛が赤かったのか?」
「真っ赤っていうわけじゃなかったが……赤いものは確かに見えた。奴は絶対に今、山にいるはずだと俺は思う。――だけどよ、もしかしてこの娘を連れているから俺達に手出しできなくて、姿を見せねぇのかも……」
 お雪は雪彦が今、親子を守るために山にいるであろう事を思い出した。そしてもし彼がこの男達と対峙するなら、お雪は自分が実に邪魔な存在となる事にすぐに気付いた。
「はっはは!耳介……お前そんな顔で、面白い事言うじゃねぇか?あぁ?おい。つまりこれは、人質にも使えるってわけだ――それは便利だ。やっぱり連れて来て正解だった」
 腕吉は狡そうに笑っていた。
 お雪は、まずいと思った。
 ある急な斜面にほら穴があった。股五朗が覗き込むと、同行していた舌平は何か注意して指図した。お雪は全てを聞き取る事はできなかったが、この近辺は既に「狩り」を終えた場所で、同じ巣穴には妖狐は二度と住まないという類の話だった。
 その時、山の斜面の小さな林の闇にお雪は何かを見た。
 狐だった。それは、お雪が雪彦と山に登った時に見た、あの真っ赤な異様な色の四足の狐に間違いなかった。
 狐はお雪を見ていた。お雪も力無く狐を見つめた。そしてその目はどことなく雪彦に似ている気がした。もう一体の妖狐―― あのソウジロウという狐は人型と四足の姿を自在に行き来できた。もしや雪彦もそうなのかとお雪は思った。
 気付くと、お雪の視線の方向に、耳介の顔が向いていた。
 お雪は緊張が極度に高まったが、既に狐の姿はどこにも無かった。
「どうかしたか耳介」と腕吉が言うと、耳介は「いや、何でもねえ……」と呟いた。
 既に過去に白狐を襲ったという穴は進む先に沢山あった。どれも狭く深そうだった。
 男の一人が「駄目だ。これ以上探しても無理だぜ」と諦めるように言った。首蔵という背の低い男だった。男の首の後ろには連なった骨のような刺青が彫られていた。
 お雪は冷静に考えた。もし彼らが白狐の巣穴を見つける事を断念すれば、彼らは全てを獲り尽くしたと思って谷を去るのだろう。白狐の親子が助かる望みはありそうだった。
「そろそろこいつの出番か――おい。お前が知っている妖狐の穴はどこだ?」
 腕吉が尋ねてきたが、お雪は黙って顔をそむけた。
 だがお雪は偶然向けた視線の方向に、見覚えのある木々が生えた岩肌がある事に気付いた。そこは位置的にも妖狐達に出会った場所に近そうで、実際穴らしき物も僅かながら見えた。お雪は慌ててそこから目を逸らしたが、既に腕吉の目はその方向を向いていた。
「へえ。あの辺にあるのか……確かにあんな所は盲点だったぜ」
「――ち、違う!違う!」
「あのよぉ……お前って嘘を付くのが、致命的なくらいに、本当に下手だよな?」
 腕吉が言うと周りの者達は大笑いし、無表情でいた若い女も、思わず吹き出していた。
 耳介は無言で、彼の刃はお雪に向けられ続けていた。若衆の多くは息を切らしていた。
 舌なめずりして腕吉は衆を率いて進路をその方面に変えた。道は険しかったが、男達は相当慣れているようだった。徐々に場所は近付き、小さい洞穴が遠くに見え始めた。 
 洞穴近くの岩場を、誰か妖狐が歩いているのが見えた。あの黒丸という少年だとお雪は思った。雪彦や、あの別の妖狐はいるのかは分からない。いるのかもしれなかった。
「あれは眠ってねぇ狐だな。忍び寄って一気に殺せ」と舌の刺青の男は周囲に指図した。
 腕吉の顔はだらしなくにやけていた。集落の男達は、密かに忍び寄るのは非常に得意なようだった。黒丸は全く気付いている様子がなく、距離はどんどん縮まっていた。
 お雪は耐えられず、叫んでいた。
「黒丸!雪彦、逃げてぇぇ!」
 その振り絞った声は山中に大きく反響した。雪彦がいるかは分からなかったが、彼女は彼の名も叫んでいた、黒丸はこちらに気付き、素早く洞穴に向けて走った。腕吉は驚いてお雪を見て、怒りの表情で「こいつ」と言った。男達は最早忍ばず、音を立てて一気に駆け出した。「ぶっ殺せ」と誰かが言った。男達は押し寄せて穴に接近していた。 
 黒丸は洞穴の前で一瞬ためらったようだったが、何か武器を握って穴に入った。
 その時に後方から男の悲鳴が聞こえた。お雪は何か赤いものが跳ねているのを見た
――あの真っ赤な四足の妖狐だ。彼女はそう確信した。
 赤い狐は男達の隊の後列に襲い掛かっていた。長い尾を鞭のように振り、その尾は鋭い刃のようであるのか、男達の首から血が飛び散った。斬られた者は倒れて崖から落ちて行った。乱戦のようだったがお雪には詳細を見る余裕はなかった。
 男達は大混乱したようだったが、先頭の者達は後方を無視してがむしゃらに洞穴を目指した。
 数人が到頭、穴の周辺に到着した。腕吉が刀を片手に一足早く穴の中を覗いたが、その時に塊のような橙色の火炎が穴から吹いた。お雪には、巨大な炎の塊に見えた。
 炎は腕吉の顔面を直撃し、灼熱がお雪の頬の真横を過ぎた。
 腕吉の刀が地に落ちた。腕吉は頭と右半身が火に包まれになり、叫んで転げまわった。
 担がれていたお雪も地面に落ちた。縄の一部が焦げて切れ、手だけは彼女は自由になったが今ここで何をすべきか、彼女は完全に動揺していた。
 火消しに転げ回っていた腕吉は「刀を穴に投げろ、投げろぉ」と間髪入れず指示した。すると何人かが脇差や打刀を穴の中に向けて次々にぶん投げた。何か途切れるような嫌な声と、倒れる音がお雪の耳に入った。
 男達は穴に寄った。すると、胸から血を流した少年が穴から飛び出し手に持つ長刀で彼らを一気に叩き斬った。まるで風のような速さであった。男達は倒れたが、向かって来た別の何人もの男達と少年は斬り合いになった――もっとも男達が刀を構えて振るよりも少年の動きの方が圧倒的に早く、少年の刀は彼らの首や胴を確実に斬り裂いて行った。しかし他の事に注意を向けられる程の余裕は黒丸には無いようだった。
 お雪は、自分は何をすればよいか全く分からなかった。
 腕吉は「何人か入れ!獲ってこい」と怒鳴った。すると、小柄な三人がすかさず穴に入った。黒狐の少年はそれを見た。彼の目の前の相手はあと一人に減っていた。
 舌の男が後方に向けて何か上から大声で指図していたが、赤い毬に斬られた男達は次々に崖下に消えて行った。毬は凄まじい動きで飛び跳ね、斜面を登って来ようとしていた。
 腕吉は地に落ちた刀を拾って両手に持ち、黒狐の少年に横から襲い掛かろうとした。それを見たお雪は、落ちていた別の刀を無我夢中で拾った。
 刀は重く、お雪には持ち上げるのが精いっぱいだった。
 そして彼女は前に倒れ込むように腕吉の左腕を刺した――刃が前腕を突き抜けて、腕吉はまた叫んで再び刀を地に落とした。
 黒丸は残った一人の相手をに斬り捨て、傍にいた若そうな数人をも素早く薙ぎ倒したが、力尽きたのか彼も倒れ、そのまま動かなくなった。
 その時に丁度、洞穴に入った三人が戻ってきた――お雪はそれを見て、絶望で固まった。
 一人は首のない白い着物姿の大人の体を抱え、若い女は同じく首のない二人の子供の体を抱え、最後に出てきた男は血の滴る三つの頭部を腕に抱えて持っていた。
 親子の体の腕は力なく垂れ、白い着物は真っ赤に上から下まで汚れ、三つの頭部の目はいずれも閉じられていた。
 何かがお雪の細い胴を激しく鷲掴みした――彼女は悲鳴をあげ、空中に持ち上げられた。
「この糞小娘」と腕吉は怒鳴り、火傷で爛れた憤怒の表情を見せた。痛みでお雪はさらに声をあげた。袖が焼け落ちて露わになった男の右腕には、上腕から肘にかけて妙に不釣り合いな白く艶やかな「腕」の刺青が見えた。
 倒れた黒丸に誰か男が目を遣ったが「そいつはほっとけ」と腕吉は言った。
 体の一つを持っていた耳介は腕吉に近寄って声を掛けたが腕吉は「うるせえ、ずらかるぞ」と言って払いのけた。
 お雪は、赤い毬が飛ぶように跳ねてやって来るのを見た。
 腕吉は舌打ちし、娘を担いで洞穴前のほとんど崖の斜面を一気に駆け下り、他の者達もそれに続いた。岩だらけの比較的緩い斜面に降りると彼らは一気に遁走した。何人かは不器用にも着地に失敗したのか、血を流して倒れた。
 赤い毬は崖を下って追ってきた。最後尾を走る者から順に、鞭のような尾に裂かれ倒れた。お雪は担がれながら、飛び跳ねる赤い毬が確かにあの全身が赤い狐である事を確認した。結局山に連れられてから彼女は雪彦の姿を直接的には確認ができなかったが、もうその事を考えている余裕も無かった。
 若い女は若衆の中で生き残っていた股五朗に対して「あんたも一つ持ちな」と言って、首の無い小さい胴体の一つを押し付け、持たせた。
 腕吉達は人数を大分減らしながらも、最初に登った崖の傍まで来ていた。

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