第七章:修羅の崖④【雪降る白狐塚の谷】

「母上。水を汲みに行ってきます」とお雪はある日の昼過ぎに言った。
 あの日以来、お雪は天気が晴れていても野に行かず家にいた。ただ雪彦を待った。しかし待つのは思いのほか辛かった。命が消えて行く谷の小さな家の中で、彼女は悲しかった。
 母親は、明らかに様子がおかしい娘を気に掛けていた。
「水?そんなもの、私が行くよ……お雪。お前、近頃体調悪いだろう?」
「……いえ、大丈夫です。それと、少し外の風にも当たりたくて」
「そうかい。それならいいけど……」
 お雪は桶を持って外に出て、息をついた。母に言った言葉通りで、風に触れたかった。
 彼女とて、野の獣が別の獣を襲う事があるのは知っていた。野ではそれが稀ではなくむしろ頻繁だという事も。然らば、野の獣とそうでない者を分かつ一線は何であろうか。
 そんな考え事をしていて、注意が遅れた。井戸の傍に人がいた。そしてこの場所が待ち伏せをするのに最適な場所である事に彼女は今更ながら気付いた。恐らくあの不気味な妖狐も、故意に人目につくように死者の一人二人を井戸端に置いていた。
 井戸端にいたのは腕吉と心之介と耳介と、もう二人ばかりの上の身分の男達であった。
「本当なのかよ、耳介」
 腕吉は井戸小屋の屋根に左腕をもたれて、遊ぶように右手で柱を叩いていた。
 耳介は猫背のいつもの姿勢で立っていた。その無表情には不気味な力強さが窺えた。
「俺は確かにあの時に見たぜ。あの娘が、妖狐みたいな奴と一緒にいるのをよ……」
 お雪はそれを聞いて、その場に立ち尽くしてしまった。辺りには隠れる場所も無かった。周囲の廃屋は大体が解体され尽くし、集落は以前よりも異様に広く見えた。
――引き返す?でもきっと、すぐに気付かれて捕まる。水汲みなんか、素直に母上に頼めばよかった……お雪はそう強く思って唇を少し噛んだ。
「あの娘だったのは間違いないぜ。後ろ姿も服装も背丈も……あの娘以外にあり得ねえ」
「ふうん。それで、一緒にいた奴には狐の耳と尾があったと?」
 お雪は凍ったようにその場を動けなかった。
 腕吉と耳介は話を続けていた。
「見たのは割と遠くからだけどな。そいつが一瞬俺の方を見て、娘を抱えて逃げた時の動きが、人じゃあり得ねえ速い動きだった。あれは狐だぜ……」
「へえ!よく見ていたな。耳ばっかり食っていると、目が良くなるのかねぇ……へへへ」
 先日、小屋の前でお雪が雪彦に会った時。迂闊にも見られていたようだった。お雪は、故意ではなかったとはいえ、行くなと言われていた場に行ってしまった事を深く後悔した。
 腕吉は笑って、肘で小屋の屋根をがつんと突いた。
「つまりあの娘は狐と知り合っていて、巣の場所も知っているかもしれねえ、と……」
「俺はそう思う。シンの兄貴の話から考えても、絶対に娘は何か知っているぜ」
「兄貴、何かあったんすか?」と腕吉は心之介を見て言った。
「あぁ。あいつ、調理場から狐の頭を持って逃げようとしたのさ……まあ確かに親方が言うように狐がもうほとんど残っていないとすりゃ、闇雲に探すより巣の場所を知っている奴に場所を吐かせた方が早ぇな。穴の場所が分かったら中々のお手柄だぜ、耳介よ!」
「へぇ。ははっ!それで、聞いてみようってわけか ――おっと。御本人がそこにいるぜ?」
 腕吉はお雪の方を見て姿勢を正した。男達がお雪を囲んだ。
「お前、今の話聞いていたか?お前、狐の穴の場所を知っているのか」と腕吉は言った。
 お雪は彼らを見ずに黙っていた。腕吉は腕組みをして、かがんで顔を近付けてきた。
「――お前、嘘付くの苦手だろ?」と腕吉はやや小声で言った。突き出た頬骨は岩のようだった。
 お雪は小動物のようにビクっと震えた。呼吸が乱れ、彼女の首の側面に汗が滲んだ。
 ――山の白狐の親子が入ったと思われる小さな洞窟……あれが「巣穴」に違いない。一度行っただけの場所を案内できるはずもないが、それ以前に間違っても教えてよいものではなかった。
「場所なんて、し、知らない!」
「なる程……。おい!知っているらしいぜ」
 その場の耳介以外の者は全員大笑いした。耳介だけは笑う事なく、暗い目でお雪を見ていた。お雪は呼吸を乱し、冷静にものを考えるどころではなかった。
「面白ぇ。ちょいと、御同行してもらおうか?」
 お雪が逃げようとした時には遅かった。腕吉の荒い手が彼女の口を鷲掴みして塞いだ。
 声は一切封じられ、さらにお雪は強引に物のように肩に担がれた。いつかの時のように桶が地面に落ちた。男達は再び笑った。
「腕吉よぉ、気を付けろよ?そいつ、意外と気強いから」と心之介はにやけながら言った。
 お雪は抵抗しようと思って腕吉の服を手で掴むと、押さえつける手と腕の力は骨を砕くかのように強くなり、彼女は抵抗を中止した。心之介はお雪に顔を近付けてきた。
「おい!一応、集落では狐との付き合いは御法度だぜ?狐と仲良くする奴は晒し首の刑よ――この髪型も、お前と母親には妙にお似合いで俺は個人的に気に入っちゃいるが本当は良くねえ……狐の風習だからな」
 心之介はお雪の「狐の尾」の結び目辺りを下からぽんぽんと手で叩き上げた。お雪の髪が上下に揺れた。
「おいおい兄貴!怖がらせちゃ駄目だぜ……小便でも漏らされたら、俺が大変な事になる」
 腕吉が言うと一同は耳介を除いてまた大笑いした。心之介は愉快そうにお雪の小さい尻を叩いた。腕吉達に付添っていた肉付きの良い大きな男とふくれ面の背の低い男は故意に歩みを遅め、回り込むように背後を覗き込んでいた。
 この場で、お雪は何もできなかった。焦りで体中が火照った。
 下層の男性の何人かは暗い顔でその様子を見ていたが、見る以外には何もしなかった。
 強いて小便でもしないと逃れる方法は無いとお雪は本気で考えもしたが、そんな事をすれば一体どんな辱めを受けるか分かったものではなかったから、中止した。
 お雪は連れて行かれたのは、あの小屋の前の広場だった。そこには男達が大勢集まっていた。彼らは多くの武器を準備していた。
「よお、舌平の兄貴?待たせたな。それじゃ行こうぜ」と腕吉は言った。
 シタヘイという男はお雪を見た。剃ったのか顔に髭は無く、頭は比較的小さく。怒ったような顔は平たい。その顔付きは表情ではなく人相であるようにお雪は感じた。刈り上げた髪の頭と広い額に鉢巻を締め、つぐんだ口から「舌」を出しているのが妙だと思ったら、それは顎から喉にかけて彫られた刺青であった――お雪はそれを見て、血縁的に頭領に近い者達の名には必ず何か体の部位の名称が含まれるのかと思った。
 その「舌」の刺青の男は何か納得が行かない様子のようだった。
「吹雪の所の娘か。本当に狩りに連れて行くのか?」
「そう。耳介が言った通り、狐の穴の場所を知っている感じだぜ?」
「その場所を、もう吐かせたわけじゃないのか。この場で拷問でもするのか?」
 この時にお雪は手で口を塞がれ、窒息しそうだった。
「いや、こいつ嘘付くのが大苦手だから……連れて行ってその場で穴探しの参考にする」
「足手まといにならないか?山では、邪魔な奴はいない方がいいぜ」
「ははっ!もし邪魔になったら、山のどこかに捨てちまえばいいだろ?」
 腕吉というこの男は一見陽気そうで、恐ろしい事を平気で言うものだとお雪は思った。
 お雪は担がれたまま手足を縄できつく縛られた。心之介はその姿を見て大笑いした。
 その場の男達は皆、大型の刃物を携えていた。彼らが「狩り」に出る行動が予想以上に早く、お雪は危機感で焦った。山に行くのは腕吉ら若い衆を中心とした男達と、あの日に頭領に気に入られていた若い女だけのようだった。心之介や太った大きい男は同行せずに小屋前の広場で待機するようで、また頭領はこの場に初めからいなかった。
 数個の丘を越えて彼らは隊列を成して進んだ。
 やがて高い岩壁と雪だらけの場所に出た。お雪はここに来た事がなかった。ほぼ崖と称してよい切り立った斜面を見て「ここを登るのかよ?」と股五朗は言った。
 先頭を切って進んでいた腕吉は笑って「登るぜ」と言った。
 彼らの中の誰がが、この崖の名前を口にしていたのをお雪は聞いた――彼らはここを修羅の崖と呼ぶらしい。
 腕吉ら先頭の男衆は慣れた様子で、足場になる岩を見つけては上手に渡り確実に上に進んだ。お雪が見ると、既に結構な高さまで来ていた。ここからもし滑って落ちたら命はないだろうと思い、崖下に放り出される事を想像すると恐怖を感じた。
 彼らは崖上の緩やかな斜面状の雪原に辿り着いたが、若衆の一部が遅れていたのでしばらく岩場で待機していた。「遅えな」と言って、腕吉は辺りの雪原を見渡していた。
「本当は、他にも通りやすい道はあるとか、ねぇとか」と腕吉は、傍に立つ耳介に言った。
「それは、森のどこかだって話の道だろ?そこは狐が番をしているらしくて結局通れる場所じゃねぇ、っていう言い伝えだぜ……実際あの森は危険だと親方も言っている」
「その狐は狩れないのか?」
「その狐は冬眠しない狐だ。そういう狐は危険だから構うなっていう言い伝えがある」
「言い伝えにやたらと詳しい野郎だな。まあ、親方が言うならそれは間違いない――お、やっと来やがった。あいつら」
 息を切らして登ってきた股五朗達は、腕吉を睨んだ。腕吉は笑って、若衆に雪の上ではなく露出した岩の上を渡るよう指図した。彼らは再び進み始めた。
 お雪は同行していた軽装の若い女と一瞬だけ目が合ったが、女は軽蔑するような目を向けて鼻を鳴らし、歯牙にもかけぬように別の方をすぐに向いた。

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