しばらくの間、風の音だけがお雪の耳に入った。
「お雪、君がどこまで知っていたかは分からないけれども」と雪彦の声がして、お雪は恐ろしくも彼の顔を見上げた。彼は無人となった小屋の周囲をまだ警戒の目で見ていた。
「彼らは冬季に白狐の穴を襲って、収奪したものを集落内で分配する。大抵は、あの小屋の前に人々を集めて……ものが足りなければ誰か人間も同様に潰して食する」
それが「マツリ」であった。
残酷な事実をそのままに語る彼の姿には怒りが垣間見えた。狐といっても四足の野の獣などは言及の対象ではない事は、最早明白だった。
集落の人間は陰惨な行いを恥も無く晒しただけではなく、一人の娘と妖狐の少年との仲もご丁寧に裂いてくれた。お雪にはそう思えた。お雪は岩陰の地に愕然と座り込み両の腕を力なく垂れ、自らもこの場で死者達の一員になった気がした。悔しい気持ちもあったが、それ以上に気持ちが暗く沈んだ。
「君には知って欲しくなかったけれども」と雪彦は言った。
お雪は少し顔を上げた。
そこにあったのは怒りではなく――悲しみの妖狐の少年の表情であるように見えた。彼はこれまで強いて、事の一切を語ろうとしなかったに違いなかった。そして彼がもし人であれば今、泣いていたのかもしれない――お雪はそんな気がしてならなかった。
お雪も以前から事を知っていた――知っていたが伏せようとしてきた。だが彼との絆が壊れるのが嫌で、彼の好意にも甘えて心の闇に封じ続けようとした。
しかしそれはもうできないように思えた。
「雪彦。私と、母上は……」とお雪は彼を見て、今できる限りの明瞭な声で言った。
その先は続かなかった短い言葉に、娘は自らの想いの限りを込めようとした。彼の赤い瞳と目が合った時に彼女は異様なまでに悲しくなり、涙が出そうになった。
お雪の頬に指が触れた。
「お雪。また一緒に山に行こうっていう約束、守るよ……ただ、しばらくの間はなるべく家の外に出ないでじっとしていて。迎えに行くから――君と、君のお母さんを」
雪彦はかがみ込んでお雪の目の高さに彼自身の目の高さを合わせた。そして彼はかなりはっきりと「その時に谷を出よう。真冬が来る前に。僕が連れて行くから」と言い切った。
お雪は彼の目を見据えて「うん」と返事した。
――私があの日あの場にいた事を彼は既に知っているか、あるいはそれを強く勘くぐったのかもしれない。お雪はそう思った。彼は母の事も迎えに行くと、娘の前で今はっきりと告げたからだった。
最早迷いは不要であると思われて、お雪は僅かながら活力を得た気がした。
雪彦は立ち上がり、山の方を見ていた。それは妖狐の穴がある方角だった。お雪も何とか足に力を入れ、自らも立った。風に小さく揺れる彼の後ろ髪は何とも悲しそうだった。
「……あのお母さん狐と子狐はどうするの?他の白い狐も……」
「他の白狐はもういない。あの彼女と子狐達が、山に残る最後の白狐だよ」
「え?……どうするの。確かもう、冬眠に入るって……」
「彼女達はずっと暮らしてきた山を離れたくないと言っている。僕も説得し続けたのだけれど……彼女達も、外の世界の妖狐達に見捨てられた可哀想な存在だよ。多くの妖狐達は、どうしてもこの地を離れる事を拒むなら、もう好きにさせてやればいいと言っている……」
――なぜ彼女達は、そこまでして?
お雪は思った。だが僅かの年数しか生きていない自分と彼女達とでは、感覚も土地への愛着も全く異なるのかもしれぬ。
「雪彦は冬眠しないの?」とお雪はふと別の問いを投げかけていた。
「僕は冬眠しないよ」と雪彦は疲れた表情に笑みを乗せて言った。
空には少しずつ、流れる灰色の層雲が増えつつあった。
「白狐にとっては余計な世話だろうけども、僕は彼女達を守るために山に一度戻らないといけない。無理にでも穴から連れ出すかもしれない――それから、君らを迎えに行くから」
「……うん。分かったわ」
今となってはあの母狐と雪彦は夫婦の関係ではないとお雪は確信していたが、それでも雪彦にとって大切な仲間なのだろう。彼女はそう思った。雪彦はお雪に体を向けた。
「お雪、家に戻ってしばらく休んで――送って行こうか?体調が悪そうだ」
「……いや、大丈夫よ。ありがとう、雪彦」
お雪はよろよろと歩き出した。いつもなら振り向くと彼は姿を消しているのだが、この時はかなり長い間、雪彦はずっとその場にいた。
彼はそこに佇み、お雪を見つめ続けていた。
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