第七章:修羅の崖①【雪降る白狐塚の谷】

 ある日、久しぶりに空が綺麗に晴れた。お雪は野に出ようと思った。雪彦に会いたいという一心であった。最後に彼を見てから七日程になるが、随分と長い間別れている気がした。そしてもう一人の妖狐の存在は、何かお雪に燻るような感情を与えていた。彼女は雪彦に会いたかった。あの別の妖狐ではなく……。
 そしてお雪は雪彦に対し、母との仲についてそれとなく聞きたかった。問いただすつもりは無い――穏やかに尋ね、そして彼の口から単純な事実だけを聞きたかった。
 いつも通りの了解を得てお雪が玄関を出ようとする時、母は顔を向けて言った。
「かなり寒くなってきたし、大丈夫だとは思うけど天気も急に変わる。気を付けなよ」
 お雪は母を見て「はい。気を付けます、母上」と言って出かけて行った。
 母の言う通りに外は相当寒かった。快晴なのに日の光は午後のように弱々しかった。
 お雪は雪彦に会うために荒野を駆けた。
 いつもの場所であるはずの丘にたどり着いた時、雪彦の姿は無かった。どこにも見当たらない。こんな時にはいつもなら彼の方から寄ってきてくれたのだが、今日は違った。
 少し経って、お雪は焦りに近い不安感に突然襲われ始めた。幾つかの丘を巡り探してみたが、やはり彼はいないのであった。お雪は、母を追って家を出たあの日に何かいけない事をしたのかと急に思い始めた。冷たい風が一時、強く吹き荒れてお雪の髪を乱した。
 孤独にさいなまれ、お雪は下を向いた。しばらくしてまた歩き始め、一つの丘を登ると、別の丘の陵線に立つ影が見えた。その遠くの影はお雪に近寄ろうとせず、むしろ離れて去ろうとしたが、尖った耳と揺れる尾が見えたからお雪は雪彦だと思った。
 お雪が影を追って走ると、影はお雪から益々離れた。
 拒否されているように思えて、お雪は何でと心中で叫び、息が切れる程影を懸命に追い続け、一度は「雪彦」と相手の名を声に出し、叫ぶように呼びかけた。
 一本の木が見えた。影は、その裏に回ると反対斜面を降りたのか、途切れたように消えてしまった。お雪は泣きそうになりながら、丘の斜面を駆け登った。影は存在しなかった。
 彼女は途方に暮れ、辺りを見渡した。そもそもどの方面に来たのかと思った時、近くに小さな小屋があるのが目に付いた。それはお雪の背丈程の高さしかなく、大人が入れる大きさではなく、井戸小屋ではなく、戸と壁がある。高さと奥行は無く、長細い小屋である。
 それが、いつもは遠くから見るだけの枯れ木の傍に立つ小屋だとお雪が気付くのには意外と多くの時間を要した。母が近寄らぬように言っていた小屋。ここ最近は、お雪は遠くからでもあまり見ていなかったような気がした。
 網状の格子が張られた戸が目に付いた。ふとお雪は、中に何があるのか見たい誘惑に駆られた――ここには、一体何が?そして彼女はゆらりと、小屋の正面に歩み寄った。
「お雪!」と突然声がした。お雪は驚き、後ろを振り向いた。
 そこにいたのは、雪彦だった。彼も走ってきたのか、息を多少切らしているようだった。
 白い吐息は見えなかったが、口元と胸の息遣いは明確に分かった。彼がお雪に歩み寄ると、彼女も跳んで彼に駆け寄った。彼女は彼の旨に思い切り強く抱きつき、顔をうずめた。
「どうしたの、お雪。ここにも来るなと、言われていなかった?」と雪彦は言った。
 彼の言葉は、甘えたいお雪の気持を少々遮るものだった。その声は普段の彼らしからぬ心配と不安と、警告の響きを帯びていた。しかしお雪はそれを感じ取りつつも、自分の気持をもっと優先して欲しいと思って、少し反発するように顔を彼の胸に沈め続けた。
「もう会えないと思ったから」
「前もそんな事を言っていたね。そんな事は無いよ」
「いつもの場所にいなかったから」
「謝るよ。僕が悪かった――とにかく、ここには近付かないで」
 雪彦は片手でお雪の後ろ髪を優しく撫でた。丘の上に吹く風は冷たかった。
――母との事を話せば、彼は同じ言葉を言うだろうか。悪戯めいた衝動がお雪の心を誘い、流石にそれはしないまでも、彼女は直情的に多少大胆になりたい心持になった。
「雪彦。私の傍にいつもいて」とお雪は言い、相手を抱き締め頬を胸に押し付けた。
 雪彦は手を彼女の肩に静かに置き、少し黙った後に「そうだね」と曖昧な返事をした。
 お雪は顔を上げ、間近で彼の顔をじっと見つめた。彼は少し困ったような目でお雪を見つめ返した。その顔は、彼が母に向けていた表情とは少し違っていたようだった。
「雪彦、また山に一緒に行きたい」とお雪は言ったが、雪彦は答えなかった。
 お雪は彼の背に回していた細い腕に力を込め、相手をより強く抱き締めた。
 黙っていないで答えて欲しかった。お雪には今、沈黙が何よりも辛かった。
「―― 分かった。また一緒に行こう。近いうちに」と彼はやがてそう言った。
 お雪が顔を上げると雪彦は彼女を見つめていて、困惑気味ながらも優しく笑みを浮かべていた。それはいつもの彼の笑顔に見えた。お雪も嬉しくて、また彼の旨に顔をうずめた。
「ありがとう、雪彦。嬉しい……」とお雪が言うと雪彦は優しく彼女の背を撫でた。
 しかしその時、ほんの僅かに何か空気が変わった気がした。
「まずい!」と雪彦は小さく、しかし非常に鋭く言った。そしてお雪を素早く両手で抱きかかえ、突風のような速さで斜面を駆け下りた。お雪は何事かと思って目を丸くした。
 やや大きい一つの白岩が斜面に露出していて、雪彦はお雪とともにその陰に隠れた。
 雪彦は丘の上の方を窺っているようだった。お雪は恐る恐る、雪彦の胴に手を触れた。
「お雪、そのままじっとして。音を立てないで……絶対に」と彼は小声で言った。
 少し経った時、何かの音が聞こえ始めた。次第に声も混じってきた。何か、がやがやとした大勢の声で、聞いていてあまり心地良くない響きだった。岩陰からお雪にも見えたのは、月衛門達の集団だった。あの巨体は離れた位置からでもすぐに分かった。彼らの声は大きく、冬の澄んだ空気のせいもあってか幾らかの距離を隔ててもよく聞こえた。
 一人の男が荷車を引いていた。耳介というあの小柄な男が一人で巨大な荷車を引いていた。車には山のように何かが積まれていた。男達が小屋の付近でそれらを降ろし始めた。
 お雪は息を潜めながら唾を呑んだ。唇は乾いていた。雪彦の目は険しかった。
車に乗るのは死者達だった。
 それらは衣服をつけておらず向き出しの肌が互いに重なっていた。

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