雪彦にまた会いたいお雪の気持は何も変わらなかったが、雪の天候の日が続いた。
降る雪が比較的弱かったある日、お雪は笠を被ってぼんやりと井戸に行った。
下層の男性達が何人か、たむろしていた。一人は井戸の縁に座っていた。お雪は今更何があろうと驚かないつもりで、食べ物を要求されたら渡すつもりで、井戸に歩み寄った。
「おはようございます」とお雪は彼らに挨拶した。
そして先日の食料に関する件での母の乱暴な言葉について、お雪は詫びようとした――が、男達は一斉に血走った目を向け、お雪はその機会を失った。
「やっぱり、お前達が密かに殺っているに違いない」と一人がいきなり言ってきた。
あまりに直接に来たのでお雪は言葉を失した。彼らは笠も被らず雪まみれだった。彼らの姿は、死者に変容する前日の女性達に段々と重なってきた。
いきなり言ってきた男は指差していた。一人の新たな死者を。
その死者の男性の顔には、多くの深い裂傷があった。なぜか鎌を持ち硬直していた片手の指は小指が半端な位置から欠け、四本だった。もう片方の手は五本指。
「この間の事を根に思っているのか?根に思っているよな」と誰か生きた男が言った。
「根になんて……思っておりませぬ。私は――」
「お前の母親が気に食わない奴を次々と、密かに殺っている。お前はそれを手伝っている」
母に言及が及んで、お雪は相手を見据え「違います」ときっぱり退けた。
別の誰かが別の事を言ったがそれもお雪ははっきりと退けた。
男性達は集落内での一連の事について畳み掛けようとしていたのかもしれないが、臆病なはずの娘が強気である事に苛立ったようであった。
「小娘のくせに、生意気だ」と凍ったような髭と顔の男が言い、拳を振り上げた。
殴られると思って、お雪はすかさず両の腕で自分の顔を必死に覆った。
「その娘は何もやってないと思いますよ。母親も」
お雪は、拳が飛んでこないと分かると静かに腕を下ろした。
――誰が言ったのだろう。
それは男声だがお雪には聞き覚えがあり、そして若い声だった。雪彦かと彼女は思った。
笠を被った紺色の肩衣の小柄な男が立っていた。襟や帯は濃い群青のような色で、袴や袖は白色だった。彼は雪彦ではなかった。服装により身分の違いを察知したのか集落の男性達は一斉におののいた。彼らの態度に慣れていたお雪は、またいつもの事と思った。
笠を被った若者は一歩前に出た。褐色の草鞋が雪に食い込んだ。緒の色は青紫色だった。
「この一連の件に関して、今回のも含めて誰が殺ったかはとっくに判明しています」
「な?親方達は、もう知っているのか?こいつや、母親じゃないのか……?」
「違いますねぇ。それは月衛門さんも既に知っております……」
「一体、誰がやったと……まさか、もしかして」
「それは、あなた方には関係の無い事」
丁寧だが座った声だった。男性達は皆引き下がり、お雪も威圧を感じた。
「何にしてもこんな小さな娘を苛めるのは良くない。あなた方は、昨日も親方達から食べ物を分けてもらったのに。一体何を苛々しているのか、屑の身分だとそうなるのか?」
頭領達が下層の家々に塩以外の物を余分に配っているとはお雪には初耳で、そのような情けを果たして持つ人々なのかと、疑問に思った――一応、集落を治めている者達としての責務を果たしているという事だろうか?
若者の言葉の最後の方は、お雪には中々に侮辱的に聞こえた。お雪は自分も彼らと同じ身分だと認識していたから、黙ってうつむいた。
若者はさらに一歩前に出て死者の真横に立った。
「ここの人達は悪い事ばかりしているから、冬場に食料は配られないかもしれない」
その言葉に男性達の表情が変わった。
「そんな。それだけは!何とか……ご勘弁を」
男性の一人は必死の口調で懇願した。その極度に左右非対称に歪んだ口元の形には焦りが露骨に滲み出ていた。他の男性達も焦燥の表情は皆大体同じで、必死そうに腕を広げて手を拳にしていた。それを見て若者は失笑するように声を少し口から漏らした。
「くくくっ……であれば、これ以上娘を責めない事。娘の母の事も……。さあ。各々、家に帰りなさい」
言われて男達は唸って顔を伏せ、尾を巻くように立ち去り足跡が様々の方向に残ったが、やがてその足跡も降る雪によってすぐに掻き消されていった。井戸端には笠を被った若者と、お雪と、一人の死者だけが残った。お雪は、物言わぬ死者が共にいる事になぜか妙に安心したが、すぐに自分自身のその感情を極めて不気味に思った。
「この者は昨夜、密かに刃物を持ちお前の家に向かっていたから俺が殺しておいた」
若者は、お雪がびっくりする程に明瞭に言った。
若者は笠を指でつまんでもたげた。
見覚えのある顔の前髪の生え際の奥には、暗色の狐の耳が見えた。先日も森で会ったその妖狐の名を、お雪は思い出した。 ソウジロウ……またも結果的に助けてもらったが、狐が堂々と人の間に割って入っていた事にお雪は驚きを隠せなかった。
「あなたが、やったのね……」とお雪はぽつりと言った。
「今言った通りさ」と相手は言い、井戸の縁の上の雪を手で払って死者の隣に腰掛けた。
「婆様も、女の人達も、あなたが」
「お前は物分かりがいいね。きちんと一つ一つ、物を覚えて行く……」
「でも、何で……?なぜあなたはそんな事をしてきたの?」
「助けてもらって、そんな事をほざくか?」
言われて、お雪は思わずたじろいだ。
妖狐は右腕を伸ばした。
差し指の先がお雪の左目の瞼に触れた。冷たい指だった。
「俺はお前の事が気に入ったのさ」と妖狐は言った。
お雪は相手の爪が伸びていて、しかも鋭い事に気付いた。
「やめて」とお雪は言い、相手の手を自らの手で素早く払いのけていた。
お雪は血が出ていないか気になり、手で目の周りを懸命にさすった。
妖狐を見ると彼は機嫌を損ねた様子もなく、むしろ目を細めて嬉しそうに見えた。
「月衛門は狐の仕業だと早いうちから思っていたようだ。奴は流石に勘が鋭い――それと、お前の母親も。この谷の事をよく分かっている……」
妖狐は淡々と言って、少しだけ笑った。彼は最初の二つの死者の件のいずれでも、夜中に当人の家に行って戸を叩き、食べ物は要るかと言って外におびき出したと語った。実に簡単だったと――そう言う妖狐の表情と仕草はまるで日常の仕事を軽くこなす人のようにお雪には思えた。
死者の一人は、襲って着物と顔の皮を剥ぐと、必死にお雪の家に向けて逃げたという。だが何度戸を叩いてもすがりついても叫んでも、戸は開けられなかった。
「あの夜、その光景を楽しませてもらった」と妖狐は語り、前方のどこかに視線を向けたまま不気味な笑みを顔に浮かべた。
記憶を辿るとお雪は思い当たる事があり、口をつぐんだまま桶の柄を強く握りしめた。
お雪は妖狐と目が合った。長い前髪から覗く狐の目は意外にも妖艶で、彼はまるで女にも見えた。
妖狐は死者の頭の上の雪を手で払い、そしてその頭全体を手で鷲掴みした。
「これはあいつらにくれてやろう」と彼は言い、死者と共に頭領達の家の方へと歩き出した。死者が引きずられると地の雪が削られ、妖狐の足跡を消した。
妖狐の背面の腰巻の下からは濁った色の尾が覗いていた。
お雪はふと、井戸の水が凍っているかと心配したが大丈夫そうだった。妖狐が向かった先を再び見ると、ずっと遠くの先に小さく死者が雪の上にうつぶせで横たわり、妖狐の姿は消えていた。しばらくすると死者の元に頭領の家の者達と思われる黒い影が一人二人、そしてやがては沢山集まってきた。お雪は身を隠すように手早く水を汲んで、足早に帰宅した。しばらくの間、道には彼女の足跡が残り続けた。
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