妖狐は何も言わずお雪をいきなり抱きかかえた。
彼女が声を上げようとした時には妖狐は既に大きく飛び跳ね、六体の石像の間をゆうに越えていた。斜面の地に着地すると、その後も素早く跳ねてどんどん坂を登った。
雪彦と違って抱き方はまるで物を持つようで、強い握力は着物越しにお雪の肌に食い込むかのようだった。お雪は落ちるかと思って相手の装束の襟の付近を懸命に握った。
坂をかなり上った所で妖狐は「こっちだったかな」と言って道から外れ、さらに進んだ。
やがて高い木々に囲まれた起伏の少ない場所の土に、お雪は降ろされた。
「あ……ありがとう」
乱れた髪のままお雪が一応の礼を言うと、少年の顔で妖狐は笑みを浮かべた。
「その斜面の上の方に、もっと広くなっている所がある。母親はそこにいるはずだ」
随分と詳しく知っているのだなとお雪は思った。その土の斜面は所々、根と苔が顔を出しているだけで他の植物も雪も見当たらず、登れそうな勾配だった。先程の罠の存在は怖かったが、その心を読むように「そこには罠は一切無い」と妖狐は言った。
そこで、お雪は言葉を信じて思い切って斜面を登り始めた。罠は無かった。少々長い距離を登ると、再び平地があった。そこに薄い茶色の茣蓙が広く敷いてあり、母がいた。
但し、お雪が驚いた事には寒い中で母は裸で、着物は丁寧に畳まれ、笠や蓑や履物もそこに添えるように置かれていた。母は誰か異性との関係を持っているところだった。
母が右の腕を上げた時、遠目で詳細は隠されたが普段見る事がない脇の下辺りに、何かの傷跡がある事にお雪は気付いた。刺青かとも思ったが詳細は見えなかった。
母の相手も裸で、お雪は呆然とその後ろ姿を眺めた。その彼は母と比べて背は低く小柄で、若そうだった。しかし体つきは逞しく、また尾と尖った耳を持つ人型の妖狐であった。白色の後ろ髪は長く美しく、お雪と同じような「狐の尾」だった――お雪はその尾や髪に妙に見覚えがあり、そしてふと横顔が見えた時、お雪はその妖狐が雪彦だと分かった。
お雪は驚いて、似た別の者かとも思い、あるいはそう思おうとしたが、見れば見る程、本人だった。普段は見えぬ彼の色白の肌の腰回りは細く、しなやかそうで美しかった。
見ていると、母は優しく笑っていて、雪彦は何かの我儘に仕方なしに付き合っているようにも見えた。母が妖艶な笑みを浮かべて何か言った。それに対し少し困ったような顔をして息をつく雪彦の姿は、初めの衝撃で固まっていたお雪を少しほぐした。その姿は何だか可愛らしく、お雪は母と雪彦は遊んでいるのだと思った。
母の目がこちらを向いた気がした。
お雪は慌てて、音を極力立てぬよう脱兎の如く斜面を下って行った。心臓のざわめきが止まらなかった。彼女は、生き物の雄と雌が交わる事は知っていた。
お雪が息を切らして斜面を下り終えると、妖狐は少年の姿のまま待っていた。
「よお。どうだった?」と妖狐は言った。
「……あなたが言っていた通り、母上はいたわ」とお雪は淡々と言った。
「そうか。雪彦の奴もいただろう?」と妖狐は続け、笑った。
この妖狐は知りつつ教えたのだと、お雪はそう理解したが怒る気にもならず、それよりも緊張と寝不足で彼女は疲れていた。木々の間から覗く空は既に明るさを帯びていた。
「用が済んだなら、帰るか?」
「……うん」
再び、妖狐は無理やりにお雪を抱きかかえた。この時もお雪は声を上げる間も無かった。
そして妖狐は元の道を通らずに崖の方に行き、何とそこを飛び下りた。腹部に浮くような不快感が生じ、お雪は死ぬかと思った。妖狐は崖の中腹の岩に片足を一瞬着かせて跳び、木々の樹冠を足場に跳んで走り、無論それは人間業ではなく、ある時に木の頂から荒野の地面に飛び降りて森の近くにあった岩場にお雪を降ろした。降る雪は止んでいた。
雪彦と比べると、この妖狐は一つ一つの動作が強引で荒々しかったと彼女は感じた。
「じゃあ、俺も帰るぞ」
彼はいつの間にか四足の狐の姿になっていて、森の方へと素早く走り去り、闇の中へとすぐに姿を消してしまった。お雪は彼の人型の姿の詳細をあまり記憶に残せなかった。
その後、お雪は疲れ果てながらも何とか帰宅し、着物を着替えた。
家で留守番をしていると約束通りにまだ外が明るいうちに母は帰ってきた。お雪があの時にあの場にいた事には、母は気付いていない様子に見えた。
娘の様子を見て母は「体調でも悪いのかい、お雪」と心配した。大丈夫ですと、お雪は答えた。母は再び芋や山菜を持ち帰っていたが、それらは雪彦から贈られたもので間違いなさそうだった。お雪は、母達の仲を深く考えるのはやめた。そしていつか二人のいずれかが、あるいは双方が事情を語ってくれるはずだと思った。
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