あれから十日程経った頃だった。
お雪は、何だか集落が急に静かになり始めた気がした。集落の下層で人が減ったからだろうか。それとも皆、何かに警戒しているのか。冷え込みは厳しくなり始めていた。お雪はあの時の事に関しても問いただされる事はなかったが、男性達を警戒してなるべく会わないようにしていた。男性達も、廃屋の解体仕事に忙しくお雪の事に構う様子は無く、遠目には作業中の彼らは血眼で獰猛であるようにも見えた。
そうこうしているうちにお雪は、妖狐の雪彦の事が急に恋しくなった。
――また会いたい。真冬を迎える前に。
思い出せば思い出す程彼は優しかったようにお雪には思えて、何としてでも再会したいという思いで胸は次第にいっぱいになった。
ある日、お雪は水を汲んで母の手伝いを終えたらまた荒野に行こうかと思った。行けば必ず彼にまた会える気がした。あの時に彼から貰った首飾りは大切に保管してある。
しかしお雪が井戸に向かうと、それを妨げる事が起きたのだった。
二人の男女がいた――一人は赤い模様が入った桃色の着物の女性だった。綺麗な顔立ちで長い黒髪には艶があった。お雪は一瞬母かと思ったがすぐに違いに気付いた。
他方、男性はあの鼻下のチョビ髭が目立つ心之介だった。それを見て猛烈に悪い予感が脳裏に浮かび、お雪は踵を返した。しかしそうした時には遅く、声が響き渡っていた。
「おい!待てよ、お前」と心之介は言った。彼は腕を組み井戸小屋の柱と屋根に背をもたれ、声は非常に高圧的で先日のおどけた様子とは異なり、強く脅すかのようだった。
お雪が振り向くと心之介はにやけて手招きし「まあ、こっちに来いよ」と言った。
やむを得ずと思い、お雪は黙って彼らに近寄った。下層の男性達は視界の範囲に何人かが見えたが気付いていないのか、それとも意図的に無視しているのかは不明だった。
心之介と一緒にいた女性は、少しかがんで物珍しげに上からお雪を見てきた。
鬢削ぎにした顔の側面の髪は長く、後ろ髪は長くそのまま下方に垂らしている。前髪は全て左右と後方に分けて額には一切垂らしていない。複雑な模様の桃色の上衣は肩に打掛けて帯を締めず、その下で紫色の帯に締められた間着はくすんだ赤褐色だった。
「これが吹雪姉の娘?ふうん。痩せて暗い感じの娘だけれど、顔立ちは悪くないわね」
見た目に反し、口が軽そうな声だった。間違いなく上の身分の女性だった。
「あたしは吹雪姉の従妹でさ。『のう』って言うの。『おのう』って呼んで」
おのうは口角を釣り上げてにんまりと笑い、お雪の頬を爪が伸びた人差し指でつついた。
「よろしくお願いね?小娘ちゃん」
「親方の娘だって言えば分かりやすいかなあ。分かるだろ、お前」
心之介は前のめりになって得意気に口を挟んだ。
月衛門の娘――その説明でお雪は大いに理解し、非常に厄介な人達に捕まったと思った。
その若い女性の名を、お雪は母から聞いた覚えがあった。母はとにかく悪く言っていた。
他方、親戚関係については、お雪は初めて耳にした。頭領の娘の従妹が母なら血筋は頭領の家に近いが、それだと母が「犬小屋」に住む理由がお雪には分からなかった。
「小娘ちゃん、あんたの名前は何て言うのよ?」とおのうは言った。
「私は……お雪と言います」
「へえ。気に入らないけど、まあ可愛いって事にしてあげる――あれ。待って。この娘、刺青なら既に入れてあるじゃないのよ。顔に。……ちょっと、心之介」
「ア?どこに」と心之介は言って顔をお雪に接近させた。鼻息がお雪の頬にかかった。
一体何が顔に「入れてある」のか、お雪は聞き取りそびれた。
「この青くなった所か?これはあざか何かだろ、多分――お前どうしたよ、それは?」
忌々しい左目のあざ――これはようやく消えかけてきたが、まだしつこく残っていた。
「……少し以前の日に、強くぶつけまして」
「ほらなぁ。やっぱりそうだった。あのよ、入れてあるなら名簿に必ず印をつけるから」
「ふうん、ドジな娘ね。まあ喜びなさいよ。今日は、あたしが刺青を入れてやるから」
おのうは目を細めて口元に不気味な笑みを浮かべながら、腰に両手を当てていた。上衣の裾の口は非常に広く、広がった袖の先は幾筋もの襞を作っていた。
お雪は何の話か理解できなかったが悪事を企まれていると確信し、強引に帰ろうとした。
下層の男性達はきっと助けてくれず、助けてくれるとすれば母だけだった。
「ほれ、どこ行くの。ちょっとおいでよ。特別にあたしが彫ってあげるから」
「私、帰ります」
「ちょっと!あんた、あたしの好意を無駄にする気?」
帰ろうとするお雪の片手が強く掴まれ、おのうはお雪を引きずるように頭領達の家の方へと強引に歩き出した。お雪は転倒しかけ、もう片方の手から桶が離れ地面に転がった。
「痛い!やめて、離して―― 行きますから、お願い」
お雪が叫ぶと、おのうは捨てるように手を離した。お雪は転んだ。心之介は笑っていた。
下層の人々の何人かは顔を一瞬向けたが、すぐにわざとらしく違う方を向いた。
お雪は立ち上がった。おのうは意地悪そうな目を向けていた。
「分かればいいのよ。黙って付いてきな」と見下して吐くように言うと、おのうは振り返り再び歩き出した。その仕草は月衛門に似ているように思えた。お雪は仕方なしに黙って跡を追ったが、ふと影ができたかと思うと心之介が腰を曲げ真上から覗き込んでいた。
「あのな。俺達からの好意によるお誘いだぞ。お前は吹雪と違って大人しそうだから親方に話して、あのボロ屋暮らしの身分から俺達の側に戻してやろうかと思ってよ?」
お雪が上を見上げると、勝ち誇ったような心之介の満面の笑みがあった。
「お前の所の血筋は元々優秀だからなぁ……他の下の身分の奴らとは違う」
「母は、元々そちらのお家の一員なのですか」
「お前、母親から何も聞いてないのか?――まあ後でゆっくり教えてやるよ」
おのうは無言で前を歩いていたが、やがてお雪に歩調を合わせ始めた。
「あのさ、父親がどこの男かも分からない娘には普通だったら無い話なの。特別な話なの。そういうのって子供でも分かるわよね?お雪ちゃん」
努めて優しく言い聞かせているようで、嫌味は消しきれないようであった。
お雪はこれまで不在の父親の事を気に掛けた事がなかったが、急に気になり始めた。
「あの、私の父上という人は」とお雪は無駄かもと思いつつ、おずおずと尋ねた。
「だから、分からないのよ。吹雪姉さんが誰と寝てあんたを産んだのか。私があんたに聞きたい事よ――あの気の強い姉さんが、一体どんな男が好みなのか、ってね?」
おのうは目を細め、口を突き出すように笑みを浮かべた。「あっはっはっは!」と心之介は彼独特の笑い声を周囲に響かせた。お雪はうつむき、彼らに誘導されて黙って歩き続けた。
頭領達の家々の周囲では大体の男が腰に刀を差している。それは以前からの事だったが、最後にお使いに行った時と比して物騒さが増したようにお雪は感じた。
見覚えのある誰かが刀を腰に差し、着崩れた格好で道を闊歩していた。
「おう。心の兄貴に、のう姉さん」と腕吉は言った。
腕吉は暇そうに、そして珍しそうにお雪を上から眺めた。お雪は目を合わせなかった。
「何でこれを一緒に連れているのさ?養子にでもするのかよ」
「あはは……半分は正解だね、腕吉。これがもし素直な娘なら、お父に話をしてやってもいいと思って。一応あたしらとの血の繋がりは濃いだろ?仲良くしないと」
「へえ。面白い事考えるねえ……この冬は厳しいって親方は言っているけど、余裕かよ」
すると、傍にいた心之介は笑った。
「まあまあ腕吉よぉ。そこは親方にも考えがある。心配するな」
お雪は注意深く聴いていた。
――あの人に、一体どんな考えがあるというのだろう?
おのうは腕を組んだ。よく見ると、おのうは腕吉とも顔付きが似ているようだった。
「腕吉。あんたの見立てではどう?この小娘ちゃんは、見込みはありそうかしら」
「俺の見立て?こいつは、育てば相当の美人になるだろうよ……男を惑わす女狐だ」
三人は大笑いした。お雪は黙っていた。この者達と家族になれるとは到底思えず、住むのは立派な家ではなく今の「犬小屋」で十分だと思った。
腕吉は笑いながら、ぶらぶら大股で歩きながらその場を立ち去った。
お雪は集落で最も大きな館に連れられた。そこはまさに月衛門の住まいであって、玄関を上がると、いきなり月衛門本人の巨体が姿を現した。本能的にお雪は脚が震えた。
「何だ、こいつは」と月衛門は言って、非常に機嫌悪そうにお雪を睨んだ。
「刺青を入れてやろうと思って。この間、話をしたでしょう?それと、一族の慣習を受け入れるか見てみたい。ほれ、吹雪姉さんも頑なに拒んできたアレ」
おのうが言うと月衛門は「勝手にしろ」と関心無さそうに言って、どしどしと音を立て屋敷内のどこかへ歩き去った。お雪は、獣か魔物の巣窟に足を踏み入れた心地だった。
おのうはお雪の母が拒んだという何かがあると言うが、お雪は母からその話を聞いた覚えが無い。それは一体何なのか。お雪も、少しは気になった。
階段を登り、お雪は二階に連れられた。板張の広い床が広がる空間だった。そこに、開いた障子から外を眺める一人の青年がいた。髭は綺麗に剃り、髪を髷に結い、身なりの良い好青年という印象で腕吉のようにだらしなくない。だが、どことなく軽薄にも見えた。
「マタゴロー殿ぉ!例の娘を連れてきたから、調理場から汁を持ってきていただけぬか」
甘ったるく、おのうは言った。そしてお雪に対しては「そこに座りな」と雑に言った。
「これが、吹雪さんっていう人の娘かい。その割に大人しそうだね」と青年は言った。
「意外と綺麗でしょう?ちょっと痩せ過ぎなのは粗末な物ばかり食べているからよ」
「ふ!なる程ね。じゃあ汁を食べさせてあげようか……」
青年は笑顔で階段へすたすたと向かい降りて行った。何か不気味にお雪は感じた。
心之介は階段の方に向けて「マタ、俺の分も頼むぜ!それと酒も」と言った。
階段下からは了解の旨を伝える青年の声が聞こえた。
おのうは何やら黒い箱を棚から引っ張り出し、銀色の細い器具を次々に取り出した。
「あの人はね、あたしの婚約者なの。あんたも、子供を産む時には相手がちゃんとしている方がいいだろ?いい女にしてやるから……」
お雪は意識的に話題をそらしたかった。
「その道具は、何なのですか」
「彫るための道具よ。これでもあたしはお父から手施しを受けているから、上手いわよ。さあ、どこに何を彫って欲しい?言ってごらん」
「彫るって―― 何を、ですか?」
「刺青だよ。知っているでしょう?」
「何ですかそれは」
「呆れた。本当に知らないの?一族の者は全員入れる慣習なのよ。見せてあげようか」
おのうはそう言うと上衣を脱ぎ、下の衣の襟を左右に引っ張り、腰帯の上辺りまで着物をはだけたのだった。そして後ろ髪をまとめて肩に掛けるように正面に移し、膝で立ってぐるりと回って背の肌をお雪に見せた。
大きな桃色の花のようなもの――その刺青が背の白い肌に、うなじの下から腰にかけて彫られ描かれていた。花……お雪には最初そう見えた。
だがその桃色の文様は、実際は花とは似ても似つかぬもので、頭蓋骨の中の臓器の膜を剥がし真上から見た有様を詳細に彫った刺青であった。
その下には尾のように露出してくねった髄の刺青が女の腰の背面へと続き、細かい枝のように描かれた紅色の線は臓器に絡みつく血管の数々を詳細に描いたものだった。
お雪は幼いながら、大体の事を把握した。これは花ではなく臓器を描いたものだと……。
床に無造作に脱がれた女の上衣の赤色の模様も、よく見れば幾多の血管網のようであり、華やかな色の中に何となく不気味さが感じられた理由が分かった気がした。刺青の写実性の程はお雪には分かりかねたが、おのうは母と同じく肌が白く美しいだけに悪趣味な刺青は一層不気味に映った。お雪は息を呑んだ。
おのうはお雪の反応を見て笑みを浮かべ「こういう感じよ」と言い着物を整え直した。
あぐらをかいてくつろいでいた心之介は笑っていた。その時にお雪は偶然に心之介の上着の襟の隙間から垣間見たのだが、彼の胸部にも何かの濃い赤色の刺青が彫られていた。
「絵柄は何か、あたしが決めてあげるわ……どこでもいいけど腰に彫ろうか」
お雪は詳しくは知らなかったが「彫る」という表現から筆で描くなどというものではなく肌が傷つけられるのだと直感的に理解した。しかも、母には絶対見せられないような非常に醜いものを刻まれるという確信があった。
おのうは器具を持ち、迫るように膝で歩いてお雪に接近した。虫の姿を連想させた。
「あたしも時間が惜しいから小さく彫るわよ ――早く、脱いでくれる?」
「え?」とお雪が言うと、心之介が顔を突き出して眺めているのが見えた。お雪はとんでもない巣に来てしまったものだと思い、拒むように黙っていたが、おのうが機嫌悪そうに顔を凄めてきたので怖くなり、負けを認めるように腰帯から上の着物を全てはだけた。
「物分かりがいいわねぇ、お雪ちゃん。さあ、そこにうつむせになって」
それからしばらくの間、お雪は肌を傷つけられ続けた。
そして形が出来上がると鏡でそれを見せられたが、お雪は目を向けたふりをして詳細は見なかった。大きさ自体は小さくて白く蝶のようで……多分骨か何かだろうと推測された。
「ちなみにそれは湯で洗っても絶対に消せないからね」と言われ、お雪は怯えるように自らの腰を手でさすった。傷の箇所に出血は無かったが、ずきずきと痛んだ。
「あはあは!もう終わったのか。早いね、おのうよ」
いつの間にか先程の青年がいて、盆が床に置かれていた。お雪は急いで着物を直した。
鼻につく匂いがしてお雪は酒だと思った。汁も独特の強い臭みを放っていた。
青年が盃に酒をつぐと、心之介は盆からそれを手に取り一気に呑み干した。湯気が椀の汁から立ち昇り、皿には何か乾いたものがあった。その場は宴のようになり、お雪は本当に食料の不足が深刻なのかと疑いたくもなった。
「じゃあ次は、これを食べさせてみよう」とおのうは言って椀を手に取り、箸で具をつかんで汁から出し、お雪の口元に差し出してきた。何か見慣れないものだった。
「何ですかそれは?」とお雪が尋ねると「お肉よ」とおのうは言った。
「……何のですか?」
「婆の肉よ。少し前までそっちにいたやつ。一度干したものだけどね」
お雪は耳を疑った。
だが瞬間的に言葉の理解を優先し、慌てて口を強く閉じて顔をそむけた。聞き違いかと何度も思ったが、臓器や骨の像を肌に彫るような趣味の持ち主の言う事ゆえ、言葉通りであり得た。そう言えば……と、お雪は思い起こした。狐婆様の遺体は頭領の家々の方に向けて、物のように引きずられて運ばれた。
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