あの井戸での沙汰があった日から、幾らかの日数が過ぎた。
結局の所、真相は分からず終いで集落の大人からのお雪への直接の咎めも無かったが、同じ身分の大人達の目は少し冷たくなったと彼女は感じた。
ある朝にお雪が外に出ると、空はくっきりと澄み渡り、白い吐息は陽光の中に立ち消えて行った。谷は冬季に入っていた。肌寒さは増す一方であり、昨日降っていた雪は家の周囲にもかなり積もっていた。お雪は少しだけ雪掻きの作業をした。
蒼天に雲はほとんど無く、ずっと遠くにだけ小さな千切れ雲が浮かんでいた。お雪は久しぶりに外に遊びに行きたくなった。不覚にも迷子になった日以来、荒野にはほとんど出ていなかったが、今日は遊びに行けと空から言われている気がした。
――真冬になったら、遊びに行きたくても行けなくなるし。久しぶりに、行こう。
彼女はそう思い始めた。ふかした芋を朝食に食べ、しばらく母親の裁縫の手伝いをした後でお雪は母にお伺いを立てた。
母は破れを綺麗に縫った作業袴を畳みながら「行っておいで」と言った。
お雪は喜んで支度をして外へ出て、一面雪化粧されていた荒野に向かった。
山々は麓近くまで白雪で覆い尽くされ始め、蒼く見える地肌は消えつつあった。少し駆けてみると吹く風はかなり冷たかったが、構わず彼女は一つの丘の斜面を登った。
嫌な事は風に流して忘れたかった。
お雪は小丘の頂上に立ち少し休んだ。その後、滑らないようにしっかりと地の雪を踏みしめながら一つの斜面を下った。小さな足跡がその後に続いた。
その日は良い天気だったから流石に迷子にはなるまいと思い、そして突如に、冒険心とも悪戯心とも覚束無い感情が芽生えてきた。
――あの日あの場所で見た、周囲とは区切られた雪原らしき場所……あれは一体何だったのだろう?石に刻まれた子守唄も。
なぜ母上は、あの場所に行く事を禁じたのだろう。理由は?
頭領達の家に用も無いのに行くべきでない事は、容易に理解できた。あの人達は怖いからだった。好んで行きたいとは微塵程も思わなかった。
それに対して、あの石碑があった場所と雪原らしき場所には何があるというのか。お雪は日の位置と山の形から方角を確認し、「三兄弟」の木々に向けて真っ直ぐ歩み始めた。
しかし窪地の底辺りに着いた時に不意にお雪は足を止め、そして右の方を向いた。
陵線を越えた先の別の一つの丘が見え、その上に人の形らしきものが見えた。
光の方向の加減のせいか全身が白っぽく見えて、影とは真逆だったが人の輪郭だけが見えるその姿は人影のようだった。
――人?そんなに大きい人じゃない。子供なのかな……。
しかし集落の子供で野に出て遊ぶ者はお雪が知る限り彼女自身だけだった。
その白い人の輪郭はどこに向かうわけでもなく、ただ立っていた。真っ直ぐに。目を凝らすと正面を向いているような気もした。お雪はその輪郭が気になり、その輪郭に魅かれた。彼女の足は進む方向を転じて人影の方へと向けて踏み出されていた。
ある時に人の輪郭を成す者はお雪に気付いたのか、彼女の方に体を少し向け直したようにも見えた。お雪はそれを見て一瞬足を止めたが、息を呑み、思い切ってまた足を踏み出した。一つの丘を越え、次に緩い傾斜の丘を登って行き、徐々に白い輪郭に接近した。
その白い誰かはその場に佇み続けたが、常に何かがなびいていた。長い衣、恐らく裾口の広い着物を着ていて、その袖の先が揺れているのだとお雪は思った。
段々と形が明らかになってきたその姿は、予想以上に風変わりであり、同時にお雪が知る特徴も一部有していた。頭頂の髪は二本の角のように上に尖っていて奇妙だったが、後ろ髪は縛って下に長く垂らしているように見えた。
――私と同じ髪型だ。お雪はそう思った。
その者は、ふんわりと大きい何か珍しい飾りを帯から尻の辺りに付けていたが……それが飾りではなく「尾」である事には、お雪は余程接近しないと分からなかった。
さらには、二本の角のような変わった頭髪は両の耳である事にも気付いた。
耳と言っても「人」の耳ではない――犬や狐のような毛が生えて上に向けて尖った耳である。耳や尾の毛の色と髪の色はいずれも白かった。しかし艶があり柔らかそうで、老人の白髪とは違う印象だった。その者は束ねた「狐の尾」を冷たい風になびかせ、尾を何度か軽快に上下に大きく振ってみせ、耳をちょこちょこと左右に動かした。
着衣の袖は確かに風に揺れていたが、それ以上に後ろ髪や尾が揺れていたのであった。
その者の装束の全体は首から足元まで真っ白で、紐や帯、裾の刺繍等の着衣に付けられた物だけが鮮やかな紅色だった。瞳も真紅だったが不思議と透き通るような色だった。
装束の正面の襟は下に垂らさず首の周囲で丸めて紐で括られており、胸の中央には玉らしき飾り物が付けられていた。上衣の見頃と袖との境、肩の上から脇にかけては衣に切れ目が見られたが、背面で繋がっているか縫われているかと思われた。その衣の切れ目と袖の裾からは、下衣の白い小袖が覗いていた。手と顔の肌は色白だった。
何にしても集落では身分を問わず見かけない服装だったが、男性の装束と思われた。
お雪とその者は、手が届く範囲の距離で対面していた。お雪は胸が高鳴った。
――狐。ああ。これがもしかして。お雪は深呼吸して、己の考えに整理をつけた。
これがもしかして妖術を使う狐。母が妖狐と呼んでいたものではあるまいか。
彼が両足に履いていた袴は足首で裾をすぼめる直前に至るまでふんわりと大きく横に広がり、お雪は犬や狐が直立した姿勢を思い浮かべた。帯を締めた腰には四幅程繋ぎ合わせたと思われる腰巻がまとわれ、腰巻の背後の部分の下から尾が出ていた。足の形は人と大体同じようで、白い足袋に包まれた足に白い草鞋が履かれ、結ばれた緒は赤色だった。
お雪が相手を観察している所へ、相手の腕が伸びた。
お雪は一瞬息を呑んだが、相手の白く細長い指は風で少し乱れた彼女の前髪に触れ、櫛で梳かすように優しく髪に沿って撫でた。指は額にも触れた。獣ではなく人の手だった。
手つきが優しくて、お雪は母の手かとも思った。
「大丈夫なの、これ。痛くない?」
お雪は集落で男子と会話をした記憶がほとんど無いが、相手は年上の「少年」であろうと思った。但し高めの声質と美貌から、少女だったとしてもお雪は納得しただろう。
少し遅れて、お雪は相手が左目の痛々しいあざに言及している事に気付いた。そして慌てて腕を上げて着物の袖で顔の半分を隠した。薄くなりつつもいまだに変色している肌を忌々しく思いつつ、この場で早くも大変な恥を晒したという後悔で胸が埋め尽くされ、彼女は体をわなわなと震わせ、目の前はいつかの如く白く霞み始めてきた。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」とお雪は初対面の相手に対してかすれかかった声でぶつぶつと繰り返していた。
「――いや、僕の方こそごめん。気にしていたみたいだね」と言う相手の声が聞こえた。
お雪は静かに顔を見ると、相手は僅かに微笑んでいた。嘲る笑みには見えず、少し哀愁が籠った目と穏やかな口元の形から、お雪はまた母を思い浮かべた。
「信用してもらえるか分からないけれど、隠さなくていい。僕は全く気にしないから」
少年はきっぱりとそう言った。
お雪は震えたまま黙っていたが、顔を隠していた腕をゆっくりと下ろした。
少年の顔が見えた。彼は前髪と遊び髪を綺麗に伸ばしていた。
「谷の集落の子だよね」と少年は尋ねた。
「はい」とお雪は小さい声で答えた。
その後にお雪の言葉は続かず、囁くような風の小さな音だけがしばしその場に流れた。
「君の名前は?」と少年は切り出した。
「私は、お雪と言います」
「お雪?」
お雪は何か変な事を言ってしまったかと思い、口をつぐんで相手を見つめた。
「そうか――じゃあ僕の名前と、半分同じだね」
そして少年は自らを雪彦と名乗った。
その「同じ」という言葉にお雪は親近感を強め、また相手が人の言葉を話すだけでなく、文字も知っている事にもすぐに気付くと、一気に安心感が湧き出してきた。
お雪は小さく息を吸って、少々言いにくい事を思い切って尋ねようと思った。
「あの。あなたって……狐だよね。妖狐っていうのかな」
今度はお雪の方から言葉を発した。少年はお雪を見つめて笑った。
「狐だね。妖狐とも呼ばれる」と彼は言って美しい毛並みの尻尾を振ってみせた。
お雪は段々と興奮を覚え始めてきた。今この場が現なのか夢なのか彼女には区別も付かなかったが、たとえ夢でもいいやという気になってきて言いたい事を言おうかと思った。
「私、狐の子に会うなんて初めて。本当に……妖狐なのね」
「―― 君は女の子だし、山には行かないか。妖狐の側からは、普段は谷に降りないし」
「あなたは、普段は山で暮らしているの?」
「僕は、実は違う。普段はもっと遠くの狐の街で暮らしていて、ちょっと用があって今年は来た。ここは故郷みたいなものかな……仲間はここの山に幾らかいる」
お雪は出身を同じとする親近感と、集落にはない新鮮さの両方に魅かれた。
思えば、お雪はこの白狐塚の谷の外に出たことはただの一度もないし、母からも谷の外の話は滅多に聞かない。遠くの地の街の光景を、憧れるように彼女は自分なりに想像した。
「こっちにおいでよ。こっちの斜面からは見晴しがいいよ」
雪彦は振り返り斜面を下って行き、姿を消した。お雪は何の疑いもなく彼を追った。
反対の斜面に雪彦は座っていた。彼は言葉を裏切らず、そこからは山麓に至る荒野の低地を眺望できた。散在する沢山の白い岩が大地の細かい模様を織り成し、山と谷の境を成す森の広がりもよく見えた。お雪は、この景色は初めて見た。
この斜面は太陽に向いている故か、雪は早くも溶けて草地は乾いているようだった。お雪は座っても濡れないだろうと思い、少年の横に腰を下ろした。脚を伸ばすと何だか気分が良かった。どこか遠くを見つめる彼の横顔はどことなく哀愁を帯び、そして見れば見る程、彼の髪には男子とは思えぬ美しさがあった。
「こうして休息するのもいいね。そんなに時間はないのだけれど」と彼は言った。
「行かないといけないの?」
お雪は少し残念に思った。だがこの偶然の出会いをむざむざと手放す事は絶対にしたくないという強い感情も密かに、しかし明確に芽生えていた。
少年はお雪を見た。
「この辺りのどこかにはしばらく留まるよ。でも谷ではなく山にいる時間が多いかもね」
そう言って彼は再び遠くに視線を遣った。お雪は不思議な感覚に包まれた。先刻会ったばかりだが、いつまでも傍に一緒にいたいと思った。実に奇妙な事に、お雪はこの感覚をこれまでに何度も経験しているようにも思えた。何度も、繰り返し。
「久しぶりに戻ってくると、懐かしい。大地や山の様子は変わらない。ずっと前から……」
妖狐の少年が語る言葉の声の響きの一つ一つは、理由は分からぬがお雪の心に染みて幻惑させるかのようで、集落の人間のものとは全く異質な甘さに彼女は思わず心酔した。
その時に風が吹いた。
「本当は、人間と妖狐は会っちゃいけないのだけれど」と雪彦は言った。
「えっ」とお雪は言って途端に目が覚めたように相手を見た。彼は表情を変えぬまま遠くを見続けていた。山の北西の嶺からは何筋かの灰色の細長い雲が姿を現していた。
「集落では結構厳しい取り決めがあったはずだ。お母さんから聞いていないかい?」
「……いや、私は、何も……」
「妖狐の中でも決まりがあって、僕も何年か一度だけしかここに来る事は許されない」
雪彦はそう言うと少しだけ視線を下ろした。
お雪も視線をすごすごと下ろし、自分の足と草鞋の緒をぼんやりと見つめた。ため息が出た。聞いた事のない余計な取り決めが、居座り続ける左目のあざに重なるようだった。
小さな音がして、お雪は雪彦を見た。彼は思い切ったように自らの首の後ろに手を回し、何かを両手に取った。それは小さな玉を銀色の細かい鎖で繋いだ首飾りで、玉は彼の胸飾りに似ていた。彼はそれをお雪に手渡した。透き通った薄い赤色の玉はお雪の手と指で丁度包み込める程の大きさで、細微で複雑な模様がある。
――瑪瑙(めのう)かな。お雪は思った
「……これは?すごく綺麗」
「君にあげるよ」
「え。でも、何か大切なものじゃ……」
「首に掛けてみてくれないかい?君には似合うと思うよ」
そこまで言われてお雪は素直に貰ってもいいかと思い「うん」と返事した。彼の目を見るとお雪は再び酔ったように心地良くなってしまい、集落の取り決めなど知った事ではないように思えた。好意で物のやり取りをするという事自体、集落では見かけない……母とのやり取りを除けば。首飾りを自らの細い首に掛けてみると鎖の冷たさが肌に伝わったが、玉の部分は不思議とぬくもりがも感じられた。彼女は改めてそれを手に取り眺めた。
「輝いていて、綺麗ね」
「君も綺麗だよ」
聞き違えたかと思って相手を見ると、彼は遠くを見ていたが優しく微笑んでいた。
お雪は呆気に取られ、強い照れの感情がその後に続き、恐らくそれは顔に出ていた。
――きっと世辞ではあろうけれども。そう理解しつつも、内心は嬉しかった。
「また会おう、お雪」と言って雪彦は立ち上がった。
お雪はもう少し彼と一緒にいたかった。――もっと遊びたい。そう思った時に雪彦の目はお雪に向けられていたが、別れ際に彼が一言語った言葉は妙なものだった。
「強い吹雪の夜に誰かが突然家を訪ねてきたら、決して戸を開けないで―― もし、母親はどこかと聞かれたら『私の中に』と答えて」
お雪は彼の赤い瞳を見つめながら黙って聞いていたが、何の意味か全く分からなかった。
彼は歩き始め、斜面を下って行った。白い尾を揺らしながら。それに重なるように彼の「狐の尾」は谷の風によってほつれ、美しくも乱れていた。
お雪も立ち上がり、その後ろ姿を惜しんでじっと見つめていた。そして改めて首飾りの玉を手に取ってその色を眺め、自分からも彼に最後に何か一言告げようかと思って再び前を向くと妖狐の少年の姿はどこにもなかった。
丘の斜面に佇むのは彼女一人になった。お雪の黒い「狐の尾」が静かに揺れた。
幻だったような楽しい時間をまことに惜しみつつ、お雪はゆっくりと歩いて帰宅を始めた。銀色の鎖に手で触れると冷たかった。今日の出来事は夢中ではなく現のものであったと思いたかった。彼女は玉を着物の懐に入れ、首に掛けたままの鎖も襟の下に入れた。
――狐と言うけれども、人とほぼ同じみたい。お雪にはそう思えた。話はできるし文字も知っている。
また会おうという彼の言葉を、お雪は信じたかった。
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