「母親探して歩き回り、里を求めて、こんこん、鳴いて。
雪の上に、足跡残して――」
旋律は初めて聴いたが、言葉はいつかの岩に刻まれていたものと同じだとお雪はすぐに気付いた。あれは子守唄だったのかもしれない。彼女はうっとりと、そう思った。
ところが娘が玄関戸を開いた瞬間に母は口をつぐんだ。母は樹皮の細かい筋を撚って繋ぎ合わせ、糸を作っていた。これは結構な手間がかかる作業で、お雪は苦手だった。
何事も無かったかのように母は娘に顔を向けた。
「お水ありがとうお雪。そこに置いといてくれるかい」
「―― はい。母上」
帰宅後しばらくの間、死者についてお雪は一切黙っていた。何かが恐ろしく、また心の整理が全くついていなくて口に出せなかった。悪い夢だと思いたかった。
しかし午後になるとお雪は異様な心のわだかまりを感じ始めた。遊びにも行かず母の衣類作りの仕事を手伝っていたが、何度も手元が狂った。それで、彼女は悪いものは吐いてしまいたい気持で、夕刻になってから母に事の次第を伝えたのだった。
母は食事の準備をしながら話を聞いていた。意外に、あまり気に掛けぬ様子だった。
「あの家の婆様ね。とうとうお亡くなりになったのかい。まあ、お気の毒に。あれはね、元々は上の身分の家の一つの人さ」
母は死者を知っていた。お雪には意外だった。
「羽振りを利かせて贅沢に振る舞っていた時もあったけどね、旦那に先立たれ息子も若くして死んじまうと、家を叩き出され下層の空き家に移り住んだのさ。その後も、食べ物を求めて上の身分の家々には度々物乞いに行っていたようだけどね……」
それを聞いて、お雪は何だか気の毒に感じた。
釜戸の炉の火が一瞬勢いよく燃え盛り、そしてすぐに落ち着きある調子に戻った。
死者が目を欠いていた事に関しては動物が荒らしたのではないかと母は言った。
頭領達がやってきた事については、母は最早笑い飛ばしていた。
「あいつら、他にやる事がないから」
母がそう言うならそうなのかと、お雪はそういう気もしてきたが、何か引っ掛かるものが残り続けた。
――動物……谷ではあまり見かけないけれども。虫や鳥も寒くなる季節にはいなくなるし、そう言えばいつからかどこかで飼われていた犬が吠える声も聞こえなくなったし。
たまに穀物目当てにちょろちょろ走り回る鼠ですら、今年は見かけない。
ふと、お雪は一つ話し忘れていた事を思い出して、母に一応告げた。
「私が婆様に危害を加えたのではないかと、ちょっと疑われました」
すると、お雪は予期していなかった反応を得た。
母は「はあ?」と声を荒げ、突然の憤怒の表情を示したのである。
すると、お雪は予期していなかった反応を得た。
母は「はあ?」と声を荒げ、突然の憤怒の表情を示したのであった。
お雪は不意打ちを食らったように慌て、その小さな体を震え上がらせた。急に口が渇いたように感じ始めた。母は野菜を刻んでいた包丁をまな板の上に置き、背筋を伸ばして体をお雪に真っ直ぐ向けた。
「どういう事か、きちんとお話し。お雪」
母の目はぎらつき、気のせいか瞳孔の形もおかしいように見えた。
お雪は酷く狼狽した。死者と対面した時と同じくらいに狼狽した。
「理由も無くお前が婆様を殺って、挙句に目を抉ったと思われていると」
ところでこの時点でお雪は、死者の杖で殴られた事については未だに母には秘密にしていた。そして話をこじらせぬために秘密は一層貫かねばとならぬと彼女は思った。
「直接言われたわけではないですが」
「月衛門が、そう受け取れるような事を言ったわけだね」
「いえ、別の人です」
「誰が言ったのさ」
「いえ、それはちょっと覚えていなくて……誰かが」
「お前が婆様を殺ったわけではないね?」
「やっていないです」
少しの沈黙の後で「なら問題は無いか」と母はぼそっと呟き、再び野菜を刻み始めた。
お雪は落ち着こうと思っても震えは止まらなかった。自分が怒られている対象なのかどうかも正直良く分からなかった。ただただ、母の剣幕に怯えた。家の外から何か小さく、柔らかい音が聞こえてきた。雨とは違う。降る雪だと、お雪は思った。
そっと母の顔を横から覗き込むと、釜戸の火の光の加減か、顔の影は濃く映っていた。
綺麗に刻まれた細い根菜と芋が熱湯の中に、流し込むように入れられた。鍋に蓋をすると母は再び振り向き、上から娘の顔に目を向け、少し間を置いてふうと息をついた。
「別にお前の事は何も責めてないよ。婆様の事は、とにかく私達も気を付けよう。一体誰が殺ったかも分かっていないわけだろ?この暮れの時期に、実に物騒なものだよ」
母が言うとお雪は小さく頷き「はい」とかすれ気味の声で返事をした。
その後、寝るまでの時間の母は打って変わって優しかった。
夕食の時は野菜汁にまた豆腐を入れてもらえて、食後には母はお茶を入れた。お雪は座布団の上でそれをゆったりと飲み、落ち着いた気分になる事ができた。
体が温まった彼女は小さく一息をついた。
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