第六章:狐地蔵の坂②【雪降る白狐塚の谷】

 それでお雪はいよいよ、あの場所の先には何か重大な秘密があるのだと思った。
 三本の木々の姿が黒い影として見えた時、笠を被った着物姿の人影をお雪は見つけた。
――あれは母上だ。
 しかし足跡が成す曲線はお雪から見て「三兄弟」よりも随分と右にずれており、母の行先はあの禁じられた場所ではなさそうだった。母はむしろ山麓の森に向かっていた。
 母を追うと、お雪は家からはどんどん離れた。そして時間も経過した。次第に不安がお雪の心の中に渦巻いてきた。母の足はゆったりとしているようで実際は意外に速かった。また、母は丘の斜面で歩きやすい場所を心得ていているようで、上手に道を選んでいた。
 お雪は手足が寒さで少し痛み出してきた気がした。まずい兆候であった。このままだと危険かもと少し思った時、母は黒く広がる森へと消えるように入って行った。
――どうしよう。このまま母上を追うのは良くないかなも。
 お雪は迷った。しかし彼女は思い切ってこのまま進むと決めて、駆け出して一直線に暗い森に向けて雪の荒野を突っ切った。いっその事、森まで行けば降る雪からの宿りができるという考えもあった。
 山の輪郭は、闇の中で大きく見えた。距離的には子守唄の石碑とその彼方の場所も見えるかと思い、お雪はその方角に目を向けたが丘の陵線に阻まれてそれらは見えなかった。
 森は彼女に近付いてきた。
 お雪は森に足を踏み入れた。そこでは予想通り雪を避ける事ができ、寒さは和らいだ。
 少し休んでいると近くの樹木の根元に小さなきのこが生えていて、母はきのこや山菜を採りに来たのかとお雪は思ったが、大根は森に生えていないだろうとも思った。
 雪彦と一緒に入った時以上に森の中は静寂で満ちていた。正しい道を進めば妖狐の山へ至るはずであるが、母の目的が「狐」なのかは不明だった。妖狐達がいるのは結構な山奥であるから仮に道を知っていても、こんな天候の日に一人で行くのは不自然だった。
 いつでも荒野のどこかにいた雪彦は、今日は姿を現していない。こんな天気の黎明前の時刻では彼がいなくて当然とも思えたが、それでも何らかの違和感がお雪にはあった、
 母の足跡は、森に入った時点で途切れていた。森の中の地には雪は僅かしかなく、石も意外に多く混じった土には足跡はつきにくいようだった。従って追跡はもう困難かとも思われたが、お雪に追跡を継続させたのは意外にも嗅覚であった。彼女は鼻を使った。
 木々と土の匂いに混じる母の芳香は辿れるような気がした。お雪は森の中を進んだ。
 一人で森に入ってはならないと、そう雪彦が語った事をお雪は今更ながら思い出したが明らかにもう遅く、ここまで来たら後日に彼に叱られてでも母に会うしかないと思った。
 鼻を頼りに時々進路を変えてみながら森の奥へと進むと、ちょっとした獣道があった。
 その奥には幾つもの直立した木々の輪郭が、黒い影になって見えた。道に沿ってしばらく進み、一本の太い樹木を左に曲がってみると道が開けていた。辺りは静かだった。
 遠くに何か小さい物が幾つか規則正しく並んで見え、お雪はそれらが石碑だと思った。
 そしてそこに母もいたのだった。母は並ぶ石の間を通り、斜面を登っていた。お雪は、ここが雪彦と共に通った道であろうと思った。そして急に安堵した。
 しかし母の動きが変だったのでお雪は妙に感じた。母はどう見ても真っ直ぐではなく、左右に縫うように進んでいた。母の姿が見えなくなった時、お雪は静かに前に進んだ。
――本当にここは雪彦と共に来た森?ここはまさか、全く違うのでは……。
 お雪は急に疑わしく思うようになり、安堵感は急速に瓦解し始めていた。
 彼女は足を止めていた。
 数えると全部で六つ並ぶ石は、暗くて見えにくいが石碑というよりは石像だった。小さな人の形……そのうちの何体かは形が不自然にも見えた。好奇心と不安が混じり合う中、お雪は再び前に進み出した。
 すると突然に声がした。
「母はどこか」
 お雪は足が止まり、呼吸が止まり、全身が止まり、もしや血流も止まったかとも思った。
 足が石像のように硬直し、緊張で声が喉から出なくなった。いつか、聞いたような声。
「わ、私の、私の……」と絞るようにお雪は言い、残りは自分の耳でもよく聞こえぬ程の小さな声で言うと、すぐ後に声は「食べ物はあるか」と続けた。
 そんな物は何も無かったから彼女は泣くように「何もありません」と言った。すると一体どうなってしまうのか。
「ふん。まあいい」と何かが言った。
 その声の主は、荒れた樹皮の一本の樹木の陰から体をくねらせて現れた。
 お雪はほとんど動かずに、それが着実に自分に近寄って来るのを見ていた。
 それはお雪の顔を下から見上げ「よお」と言った。
 それの顔は真正面から見ると、老人の顔をお雪に思わせた。
 暗い目元と体全体の濁った色に、お雪は見覚えがあった――いつか集落に現われて人に襲い掛かった、あの「狐」だった。不思議と、あの時の凄惨な光景はのっぺりと均されたように蘇ってはこず、お雪はただ緊張と恐怖に近い強い不安によって息が苦しかった。
「何をしに来たのだ」と狐は言った。
 お雪が口籠ると「雪彦に言われたか?」と続いた。
「いや、その……。それは、私が自分で勝手に」とお雪は何とか答えた。
「ここを通れば山に行ける。だが一人では絶対に来るなと、奴から言われなかったか?」
 お雪は黙り込んでしまった。しかし冷静に、この狐が雪彦と同じ「妖狐」であるが雪彦本人ではない事を理解した。また、一応話し合える相手かと思うと希望も持てた。
「ふん――お前は大人しいが、時に非常に大胆な行動に出る娘よ。くくくっ――母親に、よく似ておるわ」
 お雪は注意して聞き、この狐は母を知る者だと確信した。
 妖狐は斜面を向いた。
「ここは狐地蔵の坂と呼ばれている――正確には、お前達がそう呼んでいる」
「――狐……?」
「お前は教わっておらぬかもしれぬが、全ての妖狐は人を激しく憎んでいる。よく覚えておけ。妖狐を求めてこの坂を登ろうとする者は死ぬ」
 お雪は固まった。そして地面にいる四足の狐を見た。であれば、母はなぜここを登って行ったのかと、尋ねる余裕は無かった。相手もお雪を下から見据えていた。狐は口元を歪めて笑っているようにも見えた。
 狐は斜面に並ぶ「地蔵」の方を見た。
「折角来たのだから坂にもう少し近寄り、よく見ろ。本来なら生きて見る事はできぬぞ」
 お雪は何歩か前に進み、少し離れた位置から地蔵の詳細を確認した。
 それらは――どの一つも損壊されていた。
 一体は両目が深く抉られ、もう一体は頭を欠き、あるものは顎から喉に欠けてごっそりと削られ……胸の割れ目に何本もの凶器がねじ込まれている像もあった。
 それらは人ではなく「人の形」の像ではあったが、薄暗い森の中で物言わず破壊されたまま坂に立ち続ける地蔵達は、何かを訴えかけ続けている死者達のようにも見えた。
 お雪は口の中が乾いていた。
――そう言えば森の中で雪彦は言っていた。目を閉じて、決して開けぬようにと。
 お雪はその場から一歩も動けなかったが、かろうじて硬直せずに動いた眼球を少し回してみると狐がおらず、消えたかと思えば狐は既に彼女の足元まで接近していたのだった。
「俺はお前達を決して許さぬ」と妖狐は言った。
――何で、とお雪は言おうと思って声は一切出なかった。
「この森は、恐ろしい森なのだぞ。足を踏み入れた者はほぼ確実に妖狐に殺されて、後で探しても骨しか見つからぬ。集落の奴らが知らぬはずはない。母親は教えなかったのか?」
 言葉の最後の方では妖狐は笑っていたが、あまり冗談を言う声にも聞こえず、お雪は顔を向けられなかった。声は下方からお雪の顎に当たって響いているようにも感じた。
「くくく……まあ、通してやるか。理由は知らぬが、母を追いたいのであろう?お前の母は特別で、ここを通る事に関して俺は見て見ぬ振りをする事にしている」
「……そうなの?……私も、ここを通ってよいの?」
「母親の様子を見たいだけなら早く行ってこい」
「う、うん。分かったわ。ありがとう……」
 お雪が斜面に向けて一歩を踏み出した時に、妖狐は言葉を付け足した。
「おっと、待て。そのまま行くと死ぬ。止まれ」
 そんな事を言われてお雪は氷に貼りついたように足を止めた。
 妖狐は、傍にあった人の頭程の石を口で咥えて運んできた。その大きく開いた口は喉の辺りまで裂け、鋭い牙が内側外側の二重に生えていた。お雪はそれを確かに見た。
 妖狐はその石を斜面に向かって力強く放り投げた。
 石が地に落ちると、激しい衝突の金属音が鳴り響き、地から出てきた巨大な口に生えた銀色の大きな牙と牙とが噛み合わさっていた。
 お雪は初めて見たが「罠」の仕掛けだと分かり、冷や汗と呼吸の乱れが止まらなかった。
「まあ、仕掛けの場所を知る者なら避けて進めばよいだけよ。他は食い千切られる」
 妖狐はまた笑った。
――そういえば雪彦は何か変な進み方をしていて、先刻の母上の動きも妙だった。お雪は、ここは通れないと思った。そして諦めたようにしゃがみ込んだ。
「どうした。罠の場所は一応、全部教えてやるぞ」と相手は言ったが、お雪は黙り、そして震えていた。雪彦の言う通り、一人で来てはならなかった――そう思うと、彼女の目からは段々と涙が出てきた。
「おお。仕方ない娘だな。じゃあ雪彦の真似で、俺が運んでやろうか?」
「え?」とお雪が聞き返したその時、妖狐は近くの一本の太い老樹をくるりと回り、そして着衣をまとった人型になっていたのだった。
 お雪は「あっ」と声をあげた。突如人型に変化した事も驚きだったが、山で見た妖狐の一人だとも気付いたからだった。その名前をお雪は忘れてしまったが、黒丸という少年とは別の妖狐だった。確か雪彦と仲が悪い。

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