まさか、と彼女は思って目の前の女の姿を改めて見た。
青年と心之介は共に飲みながら笑い、おのうは箸で肉をつまんだまま、面白くなさそうに動きを止めていた。箸の先から汁が一滴二滴と床に垂れ落ちた。
「ちょっとどうしたのよ。食べなさいよ、ほれ!」
おのうは、突くように箸の先をお雪の口に強引に押し付けてきた。
お雪は必死に口を閉じて拒み、頑なに口を開けなかった。すると、おのうは蔑むようにそれを見つめながら、肉を自分自身の口にゆっくりと運び入れ、歯で噛み始めた。
クチャクチャと、汚らしい音がお雪の耳に入った。
お雪は口周りに付着した汁を手で拭った。おのうは吊り上った目を細めていた。
「ふうん……食べないか。でもあんた、それじゃ今後、困る事になるよ。肉を食えない奴は、この谷では生きていけないから……ずっと昔からね」
口の中のものをゴクンと呑み込む音が女の喉から聞こえた。おのうは唇を突き出して汁をすすり、肉をさらに口に詰め込み頬張って食べ、酒が入った徳利をひったくるように手に取って直接口をつけて飲み始めた。肉という言葉にお雪は卑猥なものを感じた。
やがて女は、酒の瓶を床に置き「ぷはっ」と息をついた。
「生きるためには何でも食べなきゃいけないのさ。甘い事を言う奴は死ぬのよ。母親は何も教えないのね、小娘ちゃん。まあ、じっくり教え込んであげるわよ……あたしが」
おのうは余程不快だったのか、声を荒げていた。お雪は事態を受け入れられず、心中は今にも泣き出しそうだった。心之介は気分良さそうに顔を紅潮させ絶笑していた。
「強気で、いい事だろうが。おのうよ」
彼は手に持つ酒の入った盃をぐるぐる回し、口元にそれを運んでぐびぐびと飲んだ。
そして空になった盃をぶっきらぼうに前に掲げると、控えていた青年はすかさず徳利から酒をついだ。心之介は満足気にゆったりと頷き、再び盃をぐるぐると回した。
盃の中の酒が渦を巻いているのがお雪の目に入った。辺りには酒気が満ちていた。
お雪は思わず左目に右の手を当てた。お雪とて老婆に恨みがないと言ったら嘘であったが、それとこれとは同列に論じ得ぬと思えたから、心はかき回され、乱れた。
「あの、婆様は」とお雪が振り絞るように言うと、おのうは汁の大き目の具を箸でつまんでお雪の前に突き出してきた。お雪は拒否して顔をそむけた。
汁の雫はぼたぼたと床に垂れた。
心之介はのけぞって笑いが止まらぬようで、青年も失笑するように声を出していた。
「一見大人しそうで、やっぱり吹雪の娘だぜ。度胸がある」と心之介は言った。
「吹雪さんって、そんなに気が強い人ですか」と青年も一杯飲みながら言った。
「腕吉のところの家の娘だったが、親方にも平気で逆らうわ、マツリの宴会に乱入して膳を蹴散らかすわ。女のくせに命知らずよ。お前も度胸試しだと思って一度会ってみろ」
「そりゃ、凄いですねぇ……しかしそれでよくこの集落で生き延びて子も産めるなあ」
「手先は器用で、仕事をやらせれば下手な男よりもよくやる。それで親方も、殺すのは勿体ないと思っているみたいだぜ。ああ、それと――いい女だからなぁ。いひひ」
男の口から「殺す」という言葉が出たのをお雪は耳でしっかりと捕らえた。そして、もしや集落での一連の件はこの人達の仕業だったのではないかと、非常に強く疑った。
「まあいいや」とおのうは椀と酒の瓶を床に置いて不満足そうに言った。
お雪が徹底的に拒否している事が相当癪に障っているようで、女は汁と混ぜるかのように続けざまに酒を飲んでいた。そして次に口をついて出た言葉は奇妙なものだった。
「マタゴロー殿!今度は狐の肉を持ってきて」
なぜか唐突に狐の話が出てきた。お雪は話を掴めなくなり、困惑した。
「ああ。いや……最近獲りが悪いっていう事で、親方が余計な分は一切くれなくて」
「あら。お父がそんなケチな事を言っている?だったらあたしの取り分からでもいいわ」
青年は何かためらっているようだった。
心之介はたしなめるように顔を青年に向けて突き出した。
「マタよぉ。そこはもっと慣れていかないと、一族の中で出世できないぞ?」
「はい。それは俺も分かっています」
「それなら、調理はあたしがしてあげるよ。ついでに小娘にも教える」
おのうはよろよろと立ち上がった。酔っているのだとお雪は思った。
女はお雪の傍に寄ってきた。お雪は警戒した。
「あんたの母親は、食べ物の好き嫌いがあるから、家から追い出されたのさ。狐の肉は絶対に食わないって……そう言い張ってねえ。狐の肉を食った男にも嫁げないってさ。だから好きでもない男に体を売るしか能がないの。つまらない意地を、いつまでも張って」
「……一体何の話ですか」
お雪は敢えて強気に出たくなった。泣きたいような気持は静まっていたわけではないが、母への悪口はそろそろ聞くに堪えないと、燃え上がるように強く思い始めていた。
相手はお雪を睨めつけてきたがお雪も相手を睨み返した。この時に男二人は笑いもせずに酒を飲みながらそれを眺めていた。女の口からまた何か汚い音が漏れ、お雪はおくびだと思った。おのうは髪が乱れて目にかかり、それを邪魔そうに顔の横に手で掻き分けた。
「心の言う通りね。度胸あるじゃないの、お雪ちゃん……上等だよ。こっちにおいで」
おのうはいきり立ったように腕を伸ばし、咄嗟にまずいとお雪は思ったが、遅かった。
女はお雪の首根っこを背後から回して鷲掴みし、立ち上がって乱暴に階段まで引きずって行った。そしてさらに、階段下に娘を何の躊躇もなく放り投げたのだった。
この間、声をあげたかどうかお雪には記憶が無い。
お雪は階下に転落した。しかし日頃から野で体を動かしてきた故か、彼女は本能的に途中の段の板を手で掴み、空中で一回転した後に上手に一階の床に受け身を取り、結果、無傷でいられた。この離れ業にはお雪自身が恐らく最も驚き、しばし呆然としていた。
上階では心之介が流石にまずいとでも思ったのか、階段上まで様子を見に来ていた。
「おいおい。やり過ぎて殺すなよ――お、でも無事か?意外とやる小娘だぜ……」
「ふん」とおのうは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
彼らは揃って一階に降りてきた。逃げる余裕はお雪には微塵もなく、敢え無く囲まれ、そして屋敷の一階の廊下奥にある部屋に連れて行かれた。
連れ込まれた部屋――そこは調理場であった。少なくとも、彼らはそう語った。
お雪は蒸れたような独特の甘さのある濃い臭気で思わず咳き込み、素早く着物の袖で鼻を覆った。先刻の汁や酒気の臭いも大分きつかったがその比ではなく、赤黒く染まった何かの一部は床に散らばり、掃除もされていない様子で強い不潔さが感じられた。
お雪は敷居の上に立ちながら中に入るのは拒否したく思い、草鞋を履いてでも通りたくないと思った。鍋の中では鼻につく不快な甘臭いを放ちながら何か白い塊がごぽごぽと茹られていた。あまりの強烈な臭いに、お雪は段々と吐き気を催し始めた。
お雪は少し辺りを見回した。死者がここで辱められている可能性は高く、ここに来てはならぬ故にこの家の周囲にも不用意には寄ってはならぬとすれば――実に納得が行った。
「怖がらないでいいのよ、お雪ちゃん。お料理教えてあげるだけだから」
おのうはお雪の背を手で突き飛ばした。お雪は生臭い空間に足を踏み入れる破目になり、石造りの床に転がる何かぬめったものを踏み、滑って転びそうになってその場にかがみ込んだ。うっかり床に手を突くと、そこはべったりとした何かの液体の溜まりであった。
背後から笑い声が聞こえた。料理を教えるなどという女の言葉はお雪には信用し難いものであり、むしろこの場で殺されるかもしれぬと彼女は思った。
混乱と恐怖で激しい胸の拍動と乱れた呼吸を抑えられぬ中、ふと、お雪は調理台の下の棚に物を見つけた。そして息を呑んだ。ちらと背後に目を遣ると、おのうは既に調理場に入り、お雪に接近しつつあった。男二人は廊下から悠々と見物をしていた。
お雪は目を再び台の下に戻した。男達の話し声が背後から聞こえた。
「狐の体は、もう無いのかよ?」
「獲ってきた分は、もうほとんど解体し終えていまして」
狐――
調理場の棚の最下段の暗い奥に、ぽつんと静置されていたのは、まだ小さい狐の頭部だった。狐といっても通常の四足の獣ではない――妖狐の頭であった。人と大きくは変わらぬ少年と思われる顔の目は閉じられ、口からは血を流した跡があった。もし尖った耳を頭部から切り取ったならば人との区別はほぼ付かないように思えた。
お雪は絶句する程に動揺し、自分でも説明し難い衝動で思わず両手を伸ばし、少年の頭部に触れ、そして手元に引き寄せた。思ったよりも重さがあり、そして思った以上に冷たかった。髪は長く後ろで束ねられていたが結び目から先は雑に乱され広がっていて、薄暗い中でも色は分かり、それは白色で、いつか出会った雪彦にそっくりな気がしたのでお雪は猛烈に嫌な予感に襲われ、そして怯え切った。
頭部の整った顔立ちと長い髪は少年ではなく少女のものでもあり得たのだが、雪彦と大体同じに見えたからお雪はこの場で見つけた頭部は「少年」のものであると思った。瞼に触れて目を開けてみようかと思った。彼であれば……その瞳は赤色であるはずだった。
しかし恐ろしくてためらわれた。お雪は凍えたように震える手で、尖った耳を撫でた。
「どうしたのよ。何か面白そうなものでも見つけた?こっちを向きなさい」
おのうはお雪の傍らに立っていた。お雪は乾いた自分の唇を小さく噛んだ。
そして意を決し、頭部を持って一目散に逃走を図った。お雪は走った。少年の頭を抱きかかえながら、向こう見ずで当てもなく走った。三人の大人達は予想外だったのか反応が遅れ、いずれも娘を捕え損ねた。お雪は冷静にものを考えるどころではなかったが、とにかく外に出ようと思った。
――玄関。玄関。
お雪は屋敷の廊下を走り玄関へ向かった。短い距離のはずだが、果てしなく異様に長い道筋であるように感じた。
曲がれば玄関口が目前の廊下の角に、薄桃色の着物姿の若い二人の女がいた。
二人はお雪よりは年上であろう少女達だったが、恐らく頭領の家の者だろうと思われた。
お雪はそこを無理やり突っ切ろうとした。
おのうは怒りの形相で音を立てて走り追いかけてきて、声を張り上げた。
「ちょっとあんたら!その小娘捕まえて」
お雪はかいくぐり逃れようとしたが、少女達に捕まった。袖をつかまれた時に、少年の頭部がお雪の手を離れ廊下に落ち、そしておのうの足元に向けて転がって行き、やがて顔を床に向けて停止した。お雪は両腕と両の肩を押さえ付けられ、膝を廊下の床に突いた。
「―― 何よ。こんなもん持って逃げるなんて……行動が読めない、生意気な小娘!」
おのうは息を切らしながら不満そうに狐の頭部の髪を乱暴に掴み、拾い上げた。女の目の高さまで持ち上げられた頭部は、時を刻むように規則を伴って揺れていた。
「狐の頭か。やっぱり、まだ解体してないのがあったわよね――ちょっと!心之介」
おのうは頭部を放り投げた。傍に立っていた心之介は物を突然投げられて慌て、落としそうになりながらもそれを手に取った。彼は少しばかりしかめ面をしていた。
「やれやれ。俺が解体しておくか?」
「いや、後であたしがやる」。
そう言って数歩歩き、おのうはお雪の頬を平手打ちした。
「余計な事をするな、小娘。包丁でその顔にでも、ぐちゃぐちゃに何か一発大きく彫ってやろうか?」
もう家には多分帰れないとお雪は思った。
彼女が諦めかけた時、戸を叩く音がした。玄関口からだった。おのうは顎をしゃくり、お雪を押さえていた少女達の一人に指図した。
「ちょっと、あんた。応対してきてくれる?」
「はい、姉さん。今すぐ……」
おのうの妹か近親者と思われる少女はお雪から離れて玄関口へ行った。お雪よりも幾らか年上そうな少女達は、顔は綺麗だが吊り上がった目は意地が悪そうだった。
「誰?何の用」と少女は玄関戸超しに言った。
「母はそこにいるか」
「は?……いない」
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